暴力-6つの斜めからの省察 -(スラヴォイ・ジジェク 著,中山徹 訳)
「より現実的な場面を想像してみよう。わたしが無二の親友と職場での昇進をかけてはげしい競い合いをし、その勝負に勝ったとしよう。そのあとで、わたしがしなければいけないのは、[無二の親友である]彼が昇進できるように昇進を辞退することである。そして、彼がしなければいけないのは、わたしの申し出を断ることである。こうすれば、おそらく二人の友情は続いていくだろう。ここにあるのは、象徴的やりとりのもっとも純粋なかたち、拒否されることを目的になされる身振りである。この身振りをしてもしなくても、結局は同じであるにもかかわらず、この操作のもたらす結果は全体的にみて零ではなく、当事者にとっての明確な利点、つまり連帯関係の成立をともなっている---それが象徴的なやりとりの不思議な力である。謝罪のやりとりにおいても同じ論理がはたらいている。わたしが無礼な言葉でだれかを傷つけたとしよう。わたしのなすべきことは、彼にこころから謝罪することである。そして彼のなすべきことは、次のようにいうことである。「きみの誠意に感謝するよ。でも、大丈夫。なんとも思わなかったから。きみも本心でいったわけじゃないし。あやまる必要はないよ」。要点はもちろん、最終的に謝罪の必要はなくとも、謝罪を申し出るという過程は抜かせないということだ。「あやまる必要はない」という言葉が可能になるのは、あくまで、わたしが謝罪を申し出たあとなのである。この結果、形式的にはなにも起こらなくとも、そして謝罪の必要はないといわれたとしても、最終的には得るものがあり、おそらく友情は救われるのである。しかし、拒絶されてしかるべき申し出が、もし受け入れられてしまったら、どうなるだろうか。昇進争いに負けたとき、もしわたしが「きみに昇進を譲るよ」という友人からの申し出を受け入れてしまったら、どうなるだろうか。こうした状況は壊滅的である。なぜならそれは、社会秩序に付随する、自由という見かけを崩壊させるのだから。これは社会の実質の崩壊、社会的紐帯の分解に等しい。」(p198~199)
川端・三島的な状況は、実は誰にでも起こり得ることであり、スラヴォイ・ジジェクがそれを分かりやすく例解している。
ジジェクは、昇進を巡るゼロサム的な争いを、「象徴的やり取り」の基盤を成す「拒否されることを目的になされる身振り」によって克服することを提唱している(但し、後述するように、これを単なる「譲り合い」と解釈するのは大きな間違いである。)。
だが、このやり方は結構危険である。
まず、ジジェクも指摘するように、「拒否されることを目的になされる身振り」の真意が伝わらず、この申し出が受け入れられるという危険が考えられる。
そして、これ以外にも、大きな危険がひそんでいるように思われる。
「より現実的な場面を想像してみよう。わたしが無二の親友と職場での昇進をかけてはげしい競い合いをし、その勝負に勝ったとしよう。そのあとで、わたしがしなければいけないのは、[無二の親友である]彼が昇進できるように昇進を辞退することである。そして、彼がしなければいけないのは、わたしの申し出を断ることである。こうすれば、おそらく二人の友情は続いていくだろう。ここにあるのは、象徴的やりとりのもっとも純粋なかたち、拒否されることを目的になされる身振りである。この身振りをしてもしなくても、結局は同じであるにもかかわらず、この操作のもたらす結果は全体的にみて零ではなく、当事者にとっての明確な利点、つまり連帯関係の成立をともなっている---それが象徴的なやりとりの不思議な力である。謝罪のやりとりにおいても同じ論理がはたらいている。わたしが無礼な言葉でだれかを傷つけたとしよう。わたしのなすべきことは、彼にこころから謝罪することである。そして彼のなすべきことは、次のようにいうことである。「きみの誠意に感謝するよ。でも、大丈夫。なんとも思わなかったから。きみも本心でいったわけじゃないし。あやまる必要はないよ」。要点はもちろん、最終的に謝罪の必要はなくとも、謝罪を申し出るという過程は抜かせないということだ。「あやまる必要はない」という言葉が可能になるのは、あくまで、わたしが謝罪を申し出たあとなのである。この結果、形式的にはなにも起こらなくとも、そして謝罪の必要はないといわれたとしても、最終的には得るものがあり、おそらく友情は救われるのである。しかし、拒絶されてしかるべき申し出が、もし受け入れられてしまったら、どうなるだろうか。昇進争いに負けたとき、もしわたしが「きみに昇進を譲るよ」という友人からの申し出を受け入れてしまったら、どうなるだろうか。こうした状況は壊滅的である。なぜならそれは、社会秩序に付随する、自由という見かけを崩壊させるのだから。これは社会の実質の崩壊、社会的紐帯の分解に等しい。」(p198~199)
川端・三島的な状況は、実は誰にでも起こり得ることであり、スラヴォイ・ジジェクがそれを分かりやすく例解している。
ジジェクは、昇進を巡るゼロサム的な争いを、「象徴的やり取り」の基盤を成す「拒否されることを目的になされる身振り」によって克服することを提唱している(但し、後述するように、これを単なる「譲り合い」と解釈するのは大きな間違いである。)。
だが、このやり方は結構危険である。
まず、ジジェクも指摘するように、「拒否されることを目的になされる身振り」の真意が伝わらず、この申し出が受け入れられるという危険が考えられる。
そして、これ以外にも、大きな危険がひそんでいるように思われる。