挙げられた例は、単なる「譲り合い」ではない。
ジジェクは、「自らの欲望の上で譲らない」ラカン派の哲学者らしく、まず、友人との間で「はげしい競い合い」が行われることが前提となっている。
それでは、その結果として獲得した対象(社内の地位)を私が辞退し、かつ、友人も辞退するという「象徴的な身振り」によって生まれる「連帯関係」は、果たして本物だろうか?
そこで、対象を、社内の地位のような人間ではない・代替性のあるものから、代替性のない人間、例えば、一人の女性という風に変えてみる。
夏目漱石の「それから」において、「(主人公の)代助は、・・・かつて愛しながらも義侠心から友人平岡に譲った平岡の妻三千代との再会により、妙な運命に巻き込まれていく」(新潮文庫版・解説より)。
物語が始まる前に、主人公は自分の恋人を友人に譲っているが、ここで échange が問題の発端であることが分かる。
しかも、それは、自分の本心を「胡麻化す」という形で、いわば「超自我による抑圧」の発現としてなされている。
ストーリーは、三千代との再会後、この「胡麻化し」が暴かれていくことによって展開する。
この小説のキーワードは、「胡麻化し」だろう。
ジジェクは、「自らの欲望の上で譲らない」ラカン派の哲学者らしく、まず、友人との間で「はげしい競い合い」が行われることが前提となっている。
それでは、その結果として獲得した対象(社内の地位)を私が辞退し、かつ、友人も辞退するという「象徴的な身振り」によって生まれる「連帯関係」は、果たして本物だろうか?
そこで、対象を、社内の地位のような人間ではない・代替性のあるものから、代替性のない人間、例えば、一人の女性という風に変えてみる。
夏目漱石の「それから」において、「(主人公の)代助は、・・・かつて愛しながらも義侠心から友人平岡に譲った平岡の妻三千代との再会により、妙な運命に巻き込まれていく」(新潮文庫版・解説より)。
物語が始まる前に、主人公は自分の恋人を友人に譲っているが、ここで échange が問題の発端であることが分かる。
しかも、それは、自分の本心を「胡麻化す」という形で、いわば「超自我による抑圧」の発現としてなされている。
ストーリーは、三千代との再会後、この「胡麻化し」が暴かれていくことによって展開する。
この小説のキーワードは、「胡麻化し」だろう。