Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

個人の覚醒

2021年06月22日 06時30分10秒 | Weblog
摘録 断腸亭日乗 (上)
 「西洋にも政治に関し憤怒して大統領を殺せしもの少なからず、然れども日本の浪士とは根本において異る所あり。余は昭和六、七年来の世情を見て基督教の文明と儒教の文明との相違を知ることを得たり。浪士は神道を口にすれどもその行動は儒教の誤解より来れる所多し。そはともあれ日本現代の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なき事の三事なり、政党の腐敗も軍人の暴行もこれを要するに一般国民の自覚に乏しきに起因するなり。個人の覚醒せざるがために起ることなり。然りしかうして個人の覚醒は将来においてもこれは到底望むべからざる事なるべし。」(p345)

 相沢事件後の軍法会議審判の新聞記事に関して書かれた日記であるが、なかなか鋭い。
 まず、当時の陸軍皇道派の行動原理(過激思想)は「儒教の誤解」に基づくものだと指摘している(ちなみに、相沢三郎は、当時病気であった可能性も指摘されている。)。
 儒教は、軍事化又は枝分節(segmentation)集団形成のために転用(誤用)されたというのである。
 他方において、政治における集団=政党は腐敗を極めていたというが、最も重要なのは、「一般国民の自覚に乏しき」ことだというのが、永井荷風の見解である。
 これは、夏目漱石の「私の個人主義」に通じるところがあると思う。

私の個人主義
 「こうした弊害はみな道義上の個人主義を理解し得ないから起るので、自分だけを、権力なり金力なりで、一般に推し広めようとするわがままにほかならんのであります。だから個人主義、私のここに述べる個人主義というものは、けっして俗人の考えているように国家に危険を及ぼすものでも何でもないので、他の存在を尊敬すると同時に自分の存在を尊敬するというのが私の解釈なのですから、立派な主義だろうと私は考えているのです。
 もっと解りやすく云えば、党派心がなくって理非がある主義なのです。朋党を結び団隊を作って、権力や金力のために盲動しないという事なのです。それだからその裏面には人に知られない淋しさも潜んでいるのです。すでに党派でない以上、我は我の行くべき道を勝手に行くだけで、そうしてこれと同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。そこが淋しいのです。


 さて、その後の日本において、「個人の覚醒」は達成されたといえるのだろうか?
 今なお社会のあちこちで、「金力と権力」に群がる集団、あるいは、これによって他人を支配しようとする集団が猛威を振るっているのを見るにつけても、荷風先生の言葉(予言?)は全く色あせていないと思うのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする