ドイツの学校には なぜ 「部活」 がないのか 非体育会系スポーツが生み出す文化、コミュニティ、そして豊かな時間
「・・・イギリスの場合、ゲームはゲームという一種の相対化するような見方があったことに対し、日本の場合はゲームに対して「徹底主義」や「没我」「徹頭徹尾犠牲」といった態度やメンタリティがあったといいます。応援団にしても、味方を鼓舞するだけではなく、対戦相手を罵倒してでも勝利に導くのだという考え方があり、「フェアプレー」とは言い難い行動がありました。」(p176~177)
「非軍事化」を狙って構成されたイギリスのスポーツマンシップに対し、導入当初の日本の「スポーツ」は、明らかに軍事化を目的としていた。
向かう方向がまるで逆なのである。
だから、これが戦時中は「軍事教練」として強化され、戦後も一部の「部活」では、軍事化を模倣するかのような指導(体罰を含む)が行われてきたのだろう。
しかも、こうした「自己決定なき状態の狭量なスポーツマン」=「体育会系の人」(p175)は、日本の多くの企業組織において重宝される。
「日本のスポーツマンは一種の洗脳状態のようになり、「勝利至上主義」を受け入れやすくなるのかもしれません。」(p175)という著者の言葉は、「ノルマ至上主義」に走る、こうした「自己決定なき人たち」に向けられた言葉のようにも思えてくるのである。
「・・・イギリスの場合、ゲームはゲームという一種の相対化するような見方があったことに対し、日本の場合はゲームに対して「徹底主義」や「没我」「徹頭徹尾犠牲」といった態度やメンタリティがあったといいます。応援団にしても、味方を鼓舞するだけではなく、対戦相手を罵倒してでも勝利に導くのだという考え方があり、「フェアプレー」とは言い難い行動がありました。」(p176~177)
「非軍事化」を狙って構成されたイギリスのスポーツマンシップに対し、導入当初の日本の「スポーツ」は、明らかに軍事化を目的としていた。
向かう方向がまるで逆なのである。
だから、これが戦時中は「軍事教練」として強化され、戦後も一部の「部活」では、軍事化を模倣するかのような指導(体罰を含む)が行われてきたのだろう。
しかも、こうした「自己決定なき状態の狭量なスポーツマン」=「体育会系の人」(p175)は、日本の多くの企業組織において重宝される。
「日本のスポーツマンは一種の洗脳状態のようになり、「勝利至上主義」を受け入れやすくなるのかもしれません。」(p175)という著者の言葉は、「ノルマ至上主義」に走る、こうした「自己決定なき人たち」に向けられた言葉のようにも思えてくるのである。