指揮=鈴木優人
ソプラノ=ジョアン・ラン
メゾ・ソプラノ=オリヴィア・フェアミューレン
テノール=ニック・プリッチャード
バス=ドミニク・ヴェルナー
合唱=ベルリンRIAS室内合唱団
ベリオ:シンフォニア
モーツァルト:レクイエム ニ短調 K. 626(鈴木優人補筆校訂版)
ソプラノ=ジョアン・ラン
メゾ・ソプラノ=オリヴィア・フェアミューレン
テノール=ニック・プリッチャード
バス=ドミニク・ヴェルナー
合唱=ベルリンRIAS室内合唱団
ベリオ:シンフォニア
モーツァルト:レクイエム ニ短調 K. 626(鈴木優人補筆校訂版)
<アンコール曲>
モーツァルト:アヴェ・ヴェルム・コルプス
海外の歌手とベルリンRIAS室内合唱団を招いた広い意味での歌曲コンサート。
前半の「シンフォニア」は「これぞ現代音楽」という曲で、音楽なのかどうかすら怪しい。
例えば、1楽章ではレヴィ・ストロースの「生のものと火を通したもの」のテクストが読み上げられ、2楽章では呟き声がだんだん明瞭となり「マーティン・ルーサー・キング」の名が浮かび上がる。
解説の澤谷夏樹さんは、この音楽を「不整脈」と評するが、確かに、真剣に聞いていると不整脈を発症しそうである。
ともあれ、5楽章では(意味のある/意味のなさそうな)言葉、歌、楽器の音が同じリズムで演奏され、シンクロして一つの世界を作り上げた。
これで先ほどまでの「不整脈」が治ったように感じる。
これはこれで、普段味わうことの出来ない感動的な時間である。
後半はモーツァルト「レクイエム」の鈴木優人氏による補筆校訂版である。
改めて感じるのは、旧約聖書にあらわれた世界観・死生観はやはり恐ろしいということである。
こうしたセム系の世界観・死生観は、(私が勝手に名付けた)「モース&ユベール・モデル」(命と壺(5))に含まれるはずだが、インド・ヨーロッパ系の世界観・死生観と違うのは、「終末」(この世の終わり)を観念しているところである。
「レクイエム」の中でも、Ⅲ.Sequenz(セクエンツィア(続唱))の歌詞は恐ろしい。
「怒りの日、その日こそ ダビデとシビラの預言のごとく この世は灰に帰さん。
すべてを厳しくたださんと 審判者が来たもう時、いかに恐ろしきものならん。」(訳:今谷和徳氏)
「この世は灰に帰さん」というのだから、「火」(=生命)の”媒介物”は絶滅してしまうのである。
確かに、太陽にも寿命はあるそうだから、少なくとも太陽に由来する「火」はいつかは消えてしまうことになるが、その前に"媒介物"を絶やしてしまえというのだろうか?
いや、旧約聖書の神は太陽を含む全宇宙を造ったはずなので、太陽も含め全宇宙を灰にしてしまうのだろう。
さて、終演後、4回目くらいのカーテンコールの後、ソロ・パートを歌った4人の歌手は、舞台の袖に引っ込まず、なぜか舞台後方の合唱隊の前に並んで立った。
明らかに、合唱によるアンコールが始まる気配である。
そして、流れてきたのは・・・・・・。
イントロですぐ分かる、モーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」だった。
これほどアンコールにふさわしい曲も珍しいが、面白かったのは「ソリストがコーラスに合流する」というところ。
「ソロからコーラスへ」という変身を見ることが出来たのである。
これを能でやるとすれば、「シテ」が「地謡」に加わるという話になるだろうが、どこかでやってくれないかな?