Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

12月のポトラッチ・カウント(6)

2024年12月26日 06時30分00秒 | Weblog
 「新作歌舞伎として平成27(2015)年に南座で初演された本作について、がぶを演じ続けてきた獅童は、「5度目の再演となります。今回は新たな配役として、私は狼の長である、がぶの父親役も勤めることになりました。また、私の倅の陽喜と夏幹も出演します」と、意気込みは十分。初めてめい役に挑むことになった菊之助は、「芯が強いながらも愛くるしく演じていきたい」と、笑顔で話します。

 今月の歌舞伎座は珍しく三部制で、第一部が「あらしのよるに」。
 原作の絵本が出版されて三十周年ということもあり、歌舞伎座で上演されることとなった。
 テーマは、人間(生き物)の本質とは何かというもので、結構哲学的である。

 きむらゆういち氏「恐らく全ての人は、大人か子供か?男か女か?どの国の人間か?階級はどこか?人種や民族は?富めるものか貧しいものか?偉い人かそうでないか?など、いつの間にかそのどれかに属している。もちろん誰でも枠は一つではない。
 さて、もしもどこかで人と人が出会ったら、人はそれを瞬時に判断して、喋り方や態度や対応の仕方をきめている。人間関係にはそういった情報が大切だからである。
 しかし、もし二人が出会った時、真っ暗闇で全ての外的情報がなかったとしたら、本人同士、素の姿で語り合ったとしたら、たとえ相手がどんな相手でも、たとえ相手が天敵だったとしても、二人は心が通じ合えるのだろうか?」(筋書p4~5)

 ここでのキーワードは「外的情報」である。
 哲学者であれば、「属性」などというのかもしれない。
 「オオカミ」と「ヤギ」という種、「がぶ」と「めい」という名は、いずれも「外的情報」であり、その人(動物)の本質をあらわしたものではない。
 それでは、「本質」とは何だろうか?
 おそらく、殆どの人はそんなことなど知らないし、そんなことなど考えることもなく、「外的情報」だけで生きている。
 対して、「あらしのよる」は、「外的情報」の一切ない世界を象徴しており、ここにおいてその人(生き物)の本質があらわれるというのが、きむらさんの主張なのである。
 あらしのよるに出会ったがぶとめいは、お互いの「外的情報」を一切持ち合わせないまま、暗闇のなかでコミュニケーションを行い、お互いよく似ていることが分かって意気投合する。
 ところが、明るい世界で出会うと、二人は「オオカミ」と「ヤギ」であり、「食欲」と「恐怖心」という本能と戦わなければならない状況に陥ってしまう。
 この状況を、二人は友情によって克服することが出来たのだろうか?
 ・・・ところで、ポトラッチについて言うと、三幕・第5場でちょっと出て来るだけである。
 すなわち、遭難して疲れ果てためいは、このままでは二人とも命を落としてしまうと考え、がぶに「わたしを食べて」と懇願する。
 もちろんがぶはこれを拒否するので、めいのポトラッチは未遂に終わるのだが、これを2.5ポイント(命が5ポイントで、未遂はその半分)と判定。
 
 
コメント
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