「新作歌舞伎として平成27(2015)年に南座で初演された本作について、がぶを演じ続けてきた獅童は、「5度目の再演となります。今回は新たな配役として、私は狼の長である、がぶの父親役も勤めることになりました。また、私の倅の陽喜と夏幹も出演します」と、意気込みは十分。初めてめい役に挑むことになった菊之助は、「芯が強いながらも愛くるしく演じていきたい」と、笑顔で話します。」
今月の歌舞伎座は珍しく三部制で、第一部が「あらしのよるに」。
原作の絵本が出版されて三十周年ということもあり、歌舞伎座で上演されることとなった。
テーマは、人間(生き物)の本質とは何かというもので、結構哲学的である。
きむらゆういち氏「恐らく全ての人は、大人か子供か?男か女か?どの国の人間か?階級はどこか?人種や民族は?富めるものか貧しいものか?偉い人かそうでないか?など、いつの間にかそのどれかに属している。もちろん誰でも枠は一つではない。
さて、もしもどこかで人と人が出会ったら、人はそれを瞬時に判断して、喋り方や態度や対応の仕方をきめている。人間関係にはそういった情報が大切だからである。
しかし、もし二人が出会った時、真っ暗闇で全ての外的情報がなかったとしたら、本人同士、素の姿で語り合ったとしたら、たとえ相手がどんな相手でも、たとえ相手が天敵だったとしても、二人は心が通じ合えるのだろうか?」(筋書p4~5)
ここでのキーワードは「外的情報」である。
哲学者であれば、「属性」などというのかもしれない。
「オオカミ」と「ヤギ」という種、「がぶ」と「めい」という名は、いずれも「外的情報」であり、その人(動物)の本質をあらわしたものではない。
それでは、「本質」とは何だろうか?
おそらく、殆どの人はそんなことなど知らないし、そんなことなど考えることもなく、「外的情報」だけで生きている。
対して、「あらしのよる」は、「外的情報」の一切ない世界を象徴しており、ここにおいてその人(生き物)の本質があらわれるというのが、きむらさんの主張なのである。
あらしのよるに出会ったがぶとめいは、お互いの「外的情報」を一切持ち合わせないまま、暗闇のなかでコミュニケーションを行い、お互いよく似ていることが分かって意気投合する。
ところが、明るい世界で出会うと、二人は「オオカミ」と「ヤギ」であり、「食欲」と「恐怖心」という本能と戦わなければならない状況に陥ってしまう。
この状況を、二人は友情によって克服することが出来たのだろうか?
・・・ところで、ポトラッチについて言うと、三幕・第5場でちょっと出て来るだけである。
すなわち、遭難して疲れ果てためいは、このままでは二人とも命を落としてしまうと考え、がぶに「わたしを食べて」と懇願する。
もちろんがぶはこれを拒否するので、めいのポトラッチは未遂に終わるのだが、これを2.5ポイント(命が5ポイントで、未遂はその半分)と判定。