曾根崎心中(そねざきしんじゅう)
生玉社前の段
天満屋の段
天神森の段
生玉社前の段
天満屋の段
天神森の段
第三部は「曾根崎心中」の通しで、野澤松之輔氏の脚色・作曲(ファンでなくとも一度はお参りしたい人間国宝のお墓~野澤松之輔編)。
原作のコアな部分を活かしつつ、残虐なシーンなどはカットしてマイルドにした、なかなか良い脚色である。
初心者や外国人を主な対象としていた3月の「BUNRAKU 1st SESSION」も野澤版だが、こちらはなぜか最後の残虐なシーンが長かった。
既に3月に「天神森の段」を見ているので(3月のポトラッチ・カウント(2))、ポトラッチ・ポイントは10.0(★★★★★★★★★★)で確定なのだが、児玉竜一先生の解説が素晴らしい。
「九平次は、徳兵衛の金を借りる時点から完全犯罪を企んでいます。判を落としたと称して届けを出す。そのころ徳兵衛は金策に駆け回っていますから、知るよしもありません。念のためといって借用書を作るにあたって、どう巧く言い回したのか、文言を徳兵衛に書かせたのが罠の急所です。」(パンフレットp58)
そのとおり。
借用書が九平次本人の筆跡であれば、この物語は成立しないのである。
あと、私が個人的に感心したのは、徳兵衛の「恥」(=帰属集団内における地位の低下・喪失)が増大していく過程を描いた天満屋での場面と、そこで垣間見える天満屋の亭主の処世術。
「衆人環視の中で、徳兵衛を裾に隠して床下へ忍ばせるお初の大胆な行動力。そこへ、人もこそあれ九平次一行が来るので、以降のお初の言葉はすべて、座敷の九平次と床下の徳兵衛の双方に聞かせるものとなり、観客はその双方を同時に見ることになります。徳兵衛の悪口たらたらの九平次と、床下でじっとこらえる徳兵衛。九平次に話を合わせず適当に奥へ引っ込む、亭主の処世術も世慣れたものがあります。」(p59)
確かに、その場に居ない人の悪口が始まると、良心的な人は話を合わせず、その場を離れるテクニックを使うことが多い。
さて、通しで観てみると、心中を主導していたのは実はお初であったことが良く分かる。
何しろ、最初の「生玉社前の段」の時点で、
「逢ふに逢はれぬその時はこの世ばかりの約束か、死ぬるを高の死出の山、三途の川は堰く人も堰かるゝ人もござんすまい。」(p43)
と死を仄めかしている。
上に挙げた天満屋のやり取りでも、
「情が結句の身の仇で騙されさんしたものなれど、証拠なければ理も立たず、この上は徳様も死なねばならぬ品なるが、ハテ死ぬる覚悟が聞きたい」(p45)
と裾の下にいる徳兵衛に死を促す。
近松が述べたとおり、お初は、汚れた現世から徳兵衛を浄土に導く「観音様」として位置づけられていたのである。