<ケース1>は、オブジェクトの問題、つまり人/物あるいは自/他の区別・境界が不分明であることから生じる現象であるらしいことが分かった。
これはかなりプリミティヴな現象だが、私見では、<ケース2>も基本的なメカニズムは同じだと思う。
この老人の家は防音体制がしっかりしており、外部からはヘルパーさんなども滅多に入ることがないので、”他者からの攻撃”を受けることはおよそ考えられない。
それにもかかわらず、この人の脳内では、繰り返し”他者からの攻撃”が起こっている。
つまり、ここでは、脳内の電気信号という「自己」の「物」の作用が、「他者」という「人」の攻撃に変換されているわけである。
このメカニズムは、<ケース1>の少女が、電車の座席という「他」の「物」を、”自己の身体(の一部)”と認識したことの裏返しと言ってよい。
ここで興味深いのは、どちらのケースでも、「怒り」という行動を惹き起こしたことである。
これはどう説明すべきだろうか?
「精神病の発生に際して、もちろん異なつた力域との間にだが、神経症における過程に似たものが起ると考えられる。また精神病でも次の二つの段階がはつきりしているといえる。その第一の段階は、こんどは自我が現実から離れることであり、第二は、傷手をまた回復し現実との関係がエスを犠牲にして復活することである。(中略)第二の段階は、神経症でも精神病でも同じ傾向をもつ。つまり、どちらのばあいにも、現実によつて強制されないエスの権力に、身を任せるのである。神経症も精神病も、外界に対するエスの復讐の二つの表現であり、現実の困難(※ギリシャ語につき省略)に順応することの不快さ、---不可能といつてもよいが---を示すものである。(中略)
神経症者は現実を否定せず、現実について知ろうとしないだけだが、精神病者は現実を否定して、それを置き換えようとする。正常といい「健康」というのは、この二つの反応の、ある特徴を結びあわせて、神経症のように現実を避けることはまずなく、しかも精神病のように現実を変化させようもしない態度をいうのである。」(p169~170)
例によって見事な分析だが、要するに、「怒り」は、「外界に対するエスの復讐」---<ケース1>は現実を否定する場合の、<ケース2>は現実を変化させる場合の---なのである。