「『ウィリアム・テル』の原語による舞台上演は日本初。ロッシーニの新たな扉を開く『ウィリアム・テル』新国立劇場初上演にご期待ください。」
今や知らない人はいないといっても過言ではない「ウィリアム・テル序曲」。
だが、その原語(フランス語)による舞台上演は日本初である。
これには驚く人も多いだろう。
過去、訳詞上演、ハイライト上演、演奏会形式での上演はあったが、なぜかフランス語による全幕上演はなされなかったのである。
公演パンフレットを読んでも、その理由は十分明らかにならない。
そこで、他の「上演頻度の低いオペラ」を手掛かりにして、「ウィリアム・テル」のフランス語による全幕上演が出来なかった理由を考えてみた。
真っ先に手がかりになるのは、やはり「ニュルンベルクのマイスタージンガー」である。
演奏時間:4時間半、歌手・コーラス:100名以上を要するこの楽劇は、おそらく「最もお金のかかるオペラ」の一つであるため、上演機会が非常に少ない(マイスターじゃないジンガー)。
また、514ページもある台本をマスターするのには軽く1年以上を要するらしいので(カンペの場所)、技術的な問題も大きい。
つまり、最大の問題は「ヒト」と「カネ」だった。
ということは、同じことが、演奏時間:約3時間35分、歌手・多数のコーラスに加え相当数のバレエ・ダンサーを要する「ウィリアム・テル」にも言えるのではないだろうか?
だが、それだけではなく、このオペラの「テーマ」にも、上演頻度が極めて低い理由の一つがあるように思われる。
<第4幕のあらすじ>
「アルノルドは亡き父を思い、仲間たちと立ち上がる。母の待つ家に帰ったジェミは父の指示に従い、抵抗の合図に自分の家に火を放つ。テルは船で追放されるが、嵐に襲われ湖岸に乗り上げた機に上陸。息子から受け取った矢でジェスレルを倒す。そこへ町を制圧した抵抗軍が到着し、アルノルドもマティルドと再会を果たす。人々はスイスの自由を祝い、感謝する。」
テルは、悪代官:ジェスレルを弓で射て殺害し、これを見た人々は歓声をあげる。
ここでは、悪者をやっつけるカタルシスを味わう人もいるだろうが、観る人によっては何とも後味の悪いシーンである。
つまり、「「自由」を獲得するためには殺人も許される」というこのオペラの「テーマ」自体に、上演を阻む大きな原因があるのではないかと思うのである。
・・・それにしても、「セビリアの理髪師」をつくったロッシーニが、もっとハッピーな結末に改変しなかったのはなぜだろう?
これはずいぶんもったいないことである。