「時は平安の世。生まれながらの気品と美しさを兼ね備えた光源氏は、愛人としている六条御息所のもとを訪れます。楽しい時間を過ごすうち、六条御息所は光源氏との子を身籠る葵の上を嫉み、詰(なじ)ります。光源氏が堪えかねて屋敷を去ると、六条御息所は悲しみに暮れ、次第に嫉妬に狂い…。」
”玉三郎二本立て”の2本目は、「源氏物語」(六条御息所の巻)。
新作ということで期待していたのだが、私見では、成功作とは言い難い。
構成において大きく2つの難点があるからである。
一番大きな難点は、ラストで葵上が死なないところ、つまり、原作をいわばハッピーエンドの方向に改変したところである。
ラストでは、光源氏が駆け付けて、
「私と葵、そしてこの子は固い絆で結ばれている。お前が付き入る隙はない」
と六条御息所の生霊を一喝し、力強く葵を抱きしめるところで幕が閉じる。
だが、これでは迫力がないし、紫式部に対して失礼というものだろう。
やはりここは、
「息絶えた葵を抱き起す光源氏と、その傍らで母を喪って泣き叫ぶ赤子」
でなければ収まりがつかないところである。
2つ目の難点は、六条御息所が葵に対する殺意を抱く決定的な原因となった超重要シーンが、六条御息所の「語り」によって、アッサリと描写されただけで済まされてしまうところである。
この「語り」を聞いていると、また、彼女が頻繁に発する、
「どうせ私は日陰者じゃ!」
というセリフを聞いていると、源氏より7歳年上で夫に先立たれた既婚者である御息所の「ヒステリー性被害妄想に起因する嫉妬」が生霊を生んだかのように誤解してしまいそうである。
もちろん、これは間違いである。
源氏はもともと年上の女性が好みであるし、既婚者であることを恋愛の障害とは考えていないからである。
ここはやはり、「車争い」の場面をヴィジュアルに描写すべきところだった。
つまり、土佐光吉が描いた構図を、舞台上に現前化すべきだったのである。
「のちの御息所の生霊事件へと繋がる「車争い」を緻密な画風で描く
本作で描かれているのは、『源氏物語』葵巻の車争い(牛車を止める場所を巡って、従者たちが争うこと)の場面。
優雅な王朝貴族の物語の中にあってこの車争いの事件は後々の物語の展開に大きな影響を与える。
葵祭の行列に加わることになった光源氏。その姿を一目見ようと大勢の見物人も集まった。
ここで葵の上が乗っていた車とお忍びで来ていた六条御息所が乗っていた車とが小競り合いを起こしてしまう。この有名な場面を土佐光吉が賑々しく描いた。」
本作で描かれているのは、『源氏物語』葵巻の車争い(牛車を止める場所を巡って、従者たちが争うこと)の場面。
優雅な王朝貴族の物語の中にあってこの車争いの事件は後々の物語の展開に大きな影響を与える。
葵祭の行列に加わることになった光源氏。その姿を一目見ようと大勢の見物人も集まった。
ここで葵の上が乗っていた車とお忍びで来ていた六条御息所が乗っていた車とが小競り合いを起こしてしまう。この有名な場面を土佐光吉が賑々しく描いた。」
後からやって来た葵の上の下人が無礼にも御息所の車をぶち壊し、御息所一同を追い出してテリトリーを占拠してしまう。
これによって、葵の上が御息所に対し完全に「マウントをとった」状態が実現した。
これぞ、歌舞伎の世界でいう所の、「万座の恥」であり、これがほかの演目では、屈辱を受けた人物は殺人か自殺に直行するわけである。
このシーンは5分くらいかけて描きたいところ。
あ~あ、松竹は何ともったいないことをしたことか!
・・・というわけで、「源氏物語」では、六条御息所による殺害は未遂に終わり、葵上は「万座の恥」の代償となるのを免れた。
よって、ポトラッチ・ポイントは、2.5:★★☆。