遠藤周作さんは、気になる作家の一人である。なぜなら、このところバーディーは、日本の汎神論的風土に深い関心を持っており、これに真っ向から対立するキリスト教を、さしあたり遠藤氏の思想を押さえておくべきと考えるからである。
もちろん私は聖書を読むこともあるし、かつては大きな影響を受けたものだ。しかしながら私は、人間はその環境によって大きな制約を受けるものであること、また、その制約の中でこそ最大限の力を発揮できるものであることを確信しており、このことに対して決して鈍感であってはならないと思う。その観点からすると、遠藤氏は、カトリックに仮託して「人間の普遍的契機」を過度に強調しているのではないかと恐れるのである。
たとえば、彼が「海と毒薬」や「沈黙」の中で、「海」や「自然」一般を、人間を悪に導くものの象徴として用いていることや、「白い人」の中で、「太陽」を、人間に肉欲という「悪」の衝動をめざめさせるものとして用いているのが気になるところである。確かに、人間の「意志」を尊重する思想からすれば、自然は何か克服されるべきもの、端的には「悪」ということにもなろう(トーマス・マンも似たようなことを言っていた)。そもそもキリスト教の立場からは、単なる自然を超越した神が措定されなければならず、従って自然は崇拝の対象となるべきではないのかもしれない。
しかしながら、自分の周囲の自然や人間をこのようにとらえることは、やはり不健全といわなければならない。ゲーテも言うように、人間は環境及び社会と調和しなければならず、「自分の周囲にあるものや人のことを悪く言ってはならない」のである。
私見では、遠藤氏は、自らが少年時代を過ごし、カトリックの洗礼を受けた故郷の環境にむしろ過度に制約されている。私も同じ地で2年半営業の仕事をしたことがあるのだが、あの海の汚さは日本一ではないかと思う。程近いある海水浴場にいたっては、「泳ぐところではなく、日に焼くだけのところ」とまで言われているほどである。
・・・遠藤氏も、シミラン諸島のような美しい環境で育っていれば、違った思想を持ったかもしれない。比喩的にいうと、人間は水と土でできており、自然界を循環する「水」は普遍的な契機を象徴するが、動かない「土」は個別的契機を象徴する。モーリス・ブランショが指摘するように、「土と死者」(環境と伝統)という制約要因を軽視してはならないと思うのである。
もちろん私は聖書を読むこともあるし、かつては大きな影響を受けたものだ。しかしながら私は、人間はその環境によって大きな制約を受けるものであること、また、その制約の中でこそ最大限の力を発揮できるものであることを確信しており、このことに対して決して鈍感であってはならないと思う。その観点からすると、遠藤氏は、カトリックに仮託して「人間の普遍的契機」を過度に強調しているのではないかと恐れるのである。
たとえば、彼が「海と毒薬」や「沈黙」の中で、「海」や「自然」一般を、人間を悪に導くものの象徴として用いていることや、「白い人」の中で、「太陽」を、人間に肉欲という「悪」の衝動をめざめさせるものとして用いているのが気になるところである。確かに、人間の「意志」を尊重する思想からすれば、自然は何か克服されるべきもの、端的には「悪」ということにもなろう(トーマス・マンも似たようなことを言っていた)。そもそもキリスト教の立場からは、単なる自然を超越した神が措定されなければならず、従って自然は崇拝の対象となるべきではないのかもしれない。
しかしながら、自分の周囲の自然や人間をこのようにとらえることは、やはり不健全といわなければならない。ゲーテも言うように、人間は環境及び社会と調和しなければならず、「自分の周囲にあるものや人のことを悪く言ってはならない」のである。
私見では、遠藤氏は、自らが少年時代を過ごし、カトリックの洗礼を受けた故郷の環境にむしろ過度に制約されている。私も同じ地で2年半営業の仕事をしたことがあるのだが、あの海の汚さは日本一ではないかと思う。程近いある海水浴場にいたっては、「泳ぐところではなく、日に焼くだけのところ」とまで言われているほどである。
・・・遠藤氏も、シミラン諸島のような美しい環境で育っていれば、違った思想を持ったかもしれない。比喩的にいうと、人間は水と土でできており、自然界を循環する「水」は普遍的な契機を象徴するが、動かない「土」は個別的契機を象徴する。モーリス・ブランショが指摘するように、「土と死者」(環境と伝統)という制約要因を軽視してはならないと思うのである。