魂が、「全にして一、一にして全」但し「有限・定量・性質一定」であるとすれば、それがいったん個別的に具現化したもの(命)がもとのところに戻るというのは分かりやすい。
なので、受け取ったら戻さなければならないという理屈は、自然に出て来るだろう。
もっとも、霊魂不滅説には、様々なヴァリエーションがある。
「私たちはこの問題を、次のような仕方で考えてみよう。人間が死を迎えると、その魂は冥府で存在するのか、それともしないのかを問うのだ。
さて、私たちが記憶する、古くからの言葉がある。曰く、『ここから彼の地に到ってそこにあり、再びこの地に来たりて、死んだ者たちから生まれる』。そして、もしこの通りなら、つまり、生きた者が死んだ者から生まれるのなら、私たちの魂は彼の地で存在する、ということ以外であり得ようか。」(p66)
この、プラトン(あるいは中島みゆき「時代」)的な死生観は、通常「輪廻説」の名で呼ばれる(古代ギリシャでは、ピュタゴラス派やオルフェウス教などの東方起源の宗教に限られるそうである。)。
前回のモース=ユベール・モデルを「集合的霊魂不滅説」、輪廻説を「個別的霊魂不滅説」と呼ぶと区別がはっきりすると思う。
この中間的なものが、日本の土着宗教、すなわち「祖霊信仰」であり、十分に祀られた霊魂は、一定期間を経て「神」(要するに集合的霊魂)となる(カイシャ人類学(19))。
なので、これを「折衷説」と呼ぶとよいと思う。
さて、「個別的霊魂不滅説」であれ、「折衷説」であれ、これらの説を信奉する集団においては、死者に対し供物を捧げる行為(供犠)が行われる。
典型的なものは、死者(典型は自身の先祖)の霊魂に生きた人間の血を捧げる「血食」である。
これについては様々な説明が可能であるが、「俗界・生者はその存在を聖界・死者に負うている」という思考に基づく「返礼」としての贈与であり、結局のところ、レシプロシテ原理の発現形態の一つと言ってよい。
こういう風に見てくると、これまで挙げたタイプの「霊魂不滅説」の思考による限り、いずれにせよレシプロシテ原理の罠に陥ってしまう、ということになるようだ。