(「改革」路線における)「宗教自体そして宗教団体の和合、pax deorum、は新しい体制においては影の存在というより主導的たりうる。・・・」
「2000年代半ばから、肝心の殴り込み=略奪のマージンが尽きた。・・・利益団体が実質的に一個にまとめられたと言ってよい。・・・」
「・・・まさにこの闇の中のドロドロの闘争という段階で、例のカルト集団は、他の宗教団体に対してヘゲモニーを握る。和合段階も終わって、・・・殴り込み駆動に特化した宗教団体が他を圧することになって当然である。・・・宗教団体のかつての和合部分は、・・・自分で略奪にも暴力にも手を出す、そういう集団になってしまう。」
「・・・宗教団体を介して政治家は直接社会の最下部の利益と暴力をめぐる苛烈な応酬に巻き込まれる。・・・すると、政治家は死の危険に異常接近したこととなる。・・・一元的メカニズムの頂点に反動が及んだ。・・・その「落とし前を付ける」ために誰かが「指を詰める」という場合、政治過程を越えて国家の儀礼的行為へとショートすることとなり、何の根拠もなく(当事者以外)誰も意味さえわからないもの、つまり儀礼としての最低限の要件を欠くもの、になる(しかし当事者は何が何でもやらなければならない)。」
なんだか、古代ローマにおける政治家の暗殺事件の解説のようである(というか、木庭先生はローマ史の専門家である。)。
一元的なエシャンジュ・マシ―ンが出来上がり、その内部にカルト集団が入り込んで、「社会の最下部の利益と暴力をめぐる苛烈な応酬」に政治家が巻き込まれる。
そして、最終的には、「頂点」(=安倍元首相)に危険(「ポトラッチの極」)が及ぶこととなり、「人命供犠」が実行された。
だが、当事者以外その意味は分からないのだから、本当は「供犠」と呼ぶことも出来ない。
我々は、本当にとんでもないところに行き着いてしまった。