民法学の”メシア”降臨を待っている余裕はないので、木庭先生は具体的な方策(但し、「解散命令」ではない)を提示なさっている。
これについては、「法律時報」を読んで頂くとよい。
さて、「タンホイザー」の話に戻ると、このオペラは(というか「パルジファル」や「指環」も)「人命供犠」をテーマにしており、その点でレシプロシテ原理の分析に役立つ。
これらのワーグナー作品の世界観・死生観は、ある種の宗教(プロテスタント?)のそれであり、それゆえ芸術と宗教の親近性も明らかになる。
つまり、「タンホイザー」のヴェーヌスブルク(芸術家にとっての霊感の泉=官能・無意識の世界)は、宗教における「聖界」(生前・死後の世界、魂 animus の世界)の隠喩(あるいは同じもの)と見ることが出来るわけである。
ところが、既に指摘したとおり、「尽きることのない泉」(unversiegbar Bronnen)という思考は、この宗教においてはタブーであり、ヴォルフラムに代表されるヴァルトブルク(俗界)からは敵視される。
ここで、ヴォルフラムないしヴァルトブルクの正体は「超自我」であると考えると分かりやすい。
「そうすると、この閉じ込めの厳しい人と緩い人がいると、何のせいでそれができてくるのかということになって、ここにもう1つ、イーバー・イッヒ Über-Ichというものを想定するわけです。・・・超自我というのは、見張り役、監視役でその人がこういうことをしていいか、悪いかというのを監視していて、その監視役が厳しいと、その性的な欲求なんか持ってはいけないと、この超自我が命令するから、自我がその命令を受けてそれを抑え込まなければいけない。けれども、超自我が緩い人は、そういうことがあって当然だ、人間ならみんなあるよと言っているから、そうすると抑え込まないから、エスは安心して出てこられる。超自我の厳しさと緩さの違いということを考えるようになりました。」(p12~13)
(馬場先生の解説は実に分かりやすく、少年事件や障がい者刑事弁護などに携わっている私のような素人にとっては大変ありがたい。)
それにしても、「タンホイザー」のストーリーはやはりおかしい。
芸術家は、宗教家とは異なり、本来「媒介物」や「対価」(エリーザベトの人命供犠による贖罪)など必要としないはずだからである。
「贖罪しないタンホイザー」を、例えば筒井康隆先生などが作品化してくれないものだろうか?