Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

命と壺(4)

2023年02月09日 06時30分00秒 | Weblog
(前回の続き)
 「宗教はその性質上通常のエシャンジュやレシプロシテから人々を開放する、ないし少なくとも離脱させる、作用を有する。
 ・・・ただし、かわりに多かれ少なかれ臨界的な、つまりエシャンジュではあっても一方が全取りしてゲームを終わらせるポトラッチ型の、レシプロシテに個人を帰属させる。
 「しかし反対の極として、宗教は社会の暗渠に隠れている(まさにポトラッチ典型型に見られる)危険なエネルギーを全開にしてしまうのかもしれないのである。
 ・・・要するに宗教は、一方政治過程ないし公権力自体と、他方市民社会の地下に眠るレシプロシテの過激な形態、との間を媒介しやすいのである。

 こうした記述の基礎を理解するためには、モースの「贈与論」を読んでおく必要があるが、私見では、それに先行する(既に引用した)「供犠」(但し、アンリ・ユベール との共著)も必読だと思う。
 結論を引用すると、以下のとおりである(訳文にはところどころ誤訳があるようなので、原文を確認する必要がありそう。)。

"Ce procédé consiste à établir une communication entre le monde sacré et le monde profane par l'intermédiaire d'une victime, c'est-à-dire d'une chose détruite au cours de la cérémonie."
 (供犠の)「この手続きは、犠牲という媒介によって、つまり、儀式の中で破壊される事物の媒介によって、聖なる世界と世俗の世界の間の伝達を確立することにある。」(p104)

 但し、モース(とユベール)が不親切だなと思うのは、「供犠」の根底にある思考について、サラッと(しかも最後に)しか触れていない点である。
 ここでも、モース先生の、「大事なことを終わり近くになって書く」 という困った癖(カイシャ人類学(11))が出ているように思う。

"Il a été successivement question du contrat, du rachat, de la peine, du don, de l'abnégation, des idées relatives à l'âme et à l'immortalité qui sont encore a la base de la morale commune."
  「また、われわれは今日依然として共同体道徳の基礎である、契約、贖い、罰、贈与、自己犠牲、魂とか不死に関する観念などをつぎつぎに問題としてきた。」(p111)

 そう、このくだりが重要である。
 「供犠」(あるいは贈与)を駆動するレシプロシテ原理の基礎には、「魂」や「不死」の観念があり、私見では、これが「社会の暗渠に隠れている危険なエネルギー」の正体である。
 最近の分かりやすい例で言うと、プーチン大統領が信奉する宗教思想(カイシャ人類学(18))をみるとよい。
 これは、「霊魂不滅説」の一つのヴァリエーションにほかならない。
 

コメント
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