Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

交換不可能性の罠

2023年02月21日 06時30分00秒 | Weblog
 「『コジ・ファン・トゥッテ』は『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』を手掛けたモーツァルト&ダ・ポンテの黄金コンビによる最後の作品です。
女性の貞節を確かめるために2組のカップルが恋人を交換するという恋愛喜劇を、モーツァルトが豊かなアンサンブルで綴ります。 

デスピーナ「殿方を、今、お二人は愛しておいでです、なら別のお方も愛されるでしょう、だってどれもこれも同じ価値、誰も何の値打ちもないのですから。」(p49)
ドン・アルフォンソ「男はみな女を責める、だが私は許す、たとえ彼女らが日に千回恋心を変えようと、ある者はそれを悪癖と、ある者は習性と呼ぶ、で、わたしには、それが心に欠かせぬものに思われる。
 恋する者は、しまいには欺かれたとなったなら 相手でなく、自らの誤りを責めるがよい、なぜといって、若くても老いても、美しかろうと醜かろうと、君たちわたしに唱和したまえ、女はみんなこうするもの。
 おんなはみんなこうするもの。」(p152~153)

 辻昌宏氏は、
近代人の考える個性、一人ひとりが唯一無二の存在であるという個人主義の根本を否定する毒。この物語では、恋人ですら交換可能なのだ。」 
と評するが(カタログ化される人間)、違う見方も可能なように思える。
 確かに、デスピーナもドン・アルフォンソも、「男たち/女たちは相手を exchangeable なものとしか考えない」と指摘して、近代個人主義を否定するかのようである。
 この二人は、「男たち」「女たち」という集団の間でどちらがマウントをとるかという問題に必死になっており、問題の本質を突いていない。
 その代わり、相手の「交換不可能性」を錯覚する人間たちの盲点を突いていると思うのである。
 グリエルモとフェルランドは、自分のパートナーは「比類ない女」であると確信し、その根拠として自分に対する「貞節」を挙げる、というか、これだけが、交換不可能 non-exchangeableであることの根拠となっている。
 ところが、ここに落とし穴があった。
 なぜなら、自分のパートナーについて、「彼女のことは100%理解している。絶対に私を裏切らない、貞節な、それゆえに比類ない女だ」という思考は、結局のところ”自我の拡張”にほかならず、相手を自分の支配下におく/「手段」化するものだからである。
 夫婦であっても相手は自分の手段(例えば”子分”)ではないし、心の底には「他人には知ることの出来ない深淵」があり、それを尊重するというのが、おそらくダ・ポンテが示唆した思考なのだろう。
 そもそも、相手のことを「100%分かっている」という発想自体が不遜な思い上がりであり、「一人ひとりが唯一無二の存在であるという個人主義」に反していたわけだ。
 こういうわけで、ダ・ポンテはなかなか意地の悪い人物なのだった。
 
コメント
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