蔦屋好位置さんが、「紫陽花」について、次のような鋭い指摘をしていた。
これは恋人(彼)との別れを描いた歌だが、歌詞を読むだけでは別れの理由が分からない。
第一のヒントは、サビの直前に挿入されたグロッケン音にある。
これは、スマホの着信音にも聞こえる。
第二のヒントは、その後の、雨音を表現したかのような音の連続にあり、これがスマホのタップ音を示しているというのである。
つまり、彼にほかの女性からのメッセージが来て、彼がそれに応答している場面を、背景音だけで表現したというわけである。
この指摘が当たっているとすれば、「紫陽花」は、「神は細部に宿る」という言葉が似つかわしい曲だと言ってよいと思う。
最近、これと似た感覚を覚えたのが、「ガラスの動物園」についての、演出家」イヴォ・ヴァン・ホーヴェの説明である。
「ジムというキャラクターだけが唯一ローラを受け入れている。・・・なのでジムはローラに最高な夜を与えているんですね。・・・」(3:15~)
「ジムが明かりの中にいてローラが影にいる時に、ローラが影の中からジムがいる光の中に出て来る演出をしています。なのでその光と影というところでも今回のプロダクションでは表現しています。自分が死ぬ時に演出家としての功績を5つ挙げるとしたら、このシーンをその1つに挙げますね。」(5:13~)
こういう風に、芸術家は、「神を細部に宿す」のである。