「トゥーランドットは祖先の女性たちが犯され殺されたことを我々に訴えかけます。そうです、これこそが一万二千年来、男たちが女たちにしてきたことなのです。男たちが人間という種に命を与えてくれる体をどのように扱ってきたかということなのです。・・・
このオペラでは、無実の女性、リューのことですが、彼女が15分もの間、舞台上で拷問される場面をプッチーニが書いていることです。この状況がプッチーニの精神の中のどんなコンプレックスに起因しているか解き明かすことに関しては、精神分析医に任せることにしましょう。」(ダニエル・クレーマー~公演パンフレットより)
このオペラを初めて観た/聴いたとき(東京春音楽祭2022、演奏会形式)は、「言語の分節化機能」がテーマなのだろうと思っていた(君のシニフィアンは(2))。
「名」(nome)を秘めた王子カラフは、無分節の「魂」(anima)の状態で存在し続けようとするトゥーランドットを、彼女の「身体」(corpo)を抱きしめることによって捕捉したのだが、ここでの「身体」は、分節機能を有する「名」(nome)に置き換えて考えることが出来るからである。
ところが、今回の二期会の ヴィジュアル的にも素晴らしい公演を観て、このオペラも、「タンホイザー」と同じく「人身供犠」(というよりは「人命供犠」)を大きなテーマとしていることに気付いた。
カラフの名を追及されたリューが、15分間の拷問の末、彼を守るため、そしてトゥーランドットの「愛」を彼に向けさせるため、”犠牲”となる場面がまさにそのことを示している。
リュー「あたしを縛りなさい!拷問しなさい!痛みと苦しみを私に与えなさい!ああ!あたしの愛のこの上ない捧げ物として!」(p73)
このくだりで示されているのは、「女性の自己犠牲によって救済される男性」という、ワーグナーの”大好物”といって良いテーマである。
こう考えると、晩年のプッチーニも、「ワーグナー病」に冒されていたのではないだろうか?
「ワーグナー病」とは、「一万二千年来、男たちが女たちにしてきたこと」(エシャンジュの客体としてのみ扱うこと)を、女たちが”自発的に”行うよう仕向けようとする病気のことである。
これは、これまでの長い年月をかけた人類の進歩を無に帰するようなことなのだが・・・。