Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

本当は怖い平成ヒットソング(2)

2023年07月11日 06時30分00秒 | Weblog
 「本当は怖い平成ヒットソング」と言っておきながら、「おっとCHIKAN!」は1986年、つまり昭和61年リリースの曲であることに気づいた。
 なんだか、最近、時間の感覚がおかしくなったようだ。
 というわけで、再び平成ヒットソングを振り返ってみると、やはり「怖い曲」がいくつも見つかる。

① ファイト!(中島みゆき、2001年)
   "私、本当は目撃したんです 昨日電車の駅 階段で
 ころがり落ちた子供と つきとばした女のうす笑い
 私、驚いてしまって 助けもせず叫びもしなかった
 ただ怖くて逃げました 私の敵は 私です"

 意味もなく他人を傷つけて喜ぶ人間がいるだけでなく、被害に遭って困っていたり苦しんでいたりする人を見ても「助けもせず叫びもしない」という現代の日本(主に都市部)の状況を鋭く描いた歌詞で、とても他人事とは思えない。

② ロビンソン(スピッツ、1995年)
 "誰も触れない 二人だけの国 君の手を離さぬように
 大きな力で 空に浮かべたら ルララ 宇宙の風に乗る"

 この曲については、川谷絵音氏が、「後追い自殺」の歌ではないかという的確な解説をしていた(【関ジャム】スピッツ特集!プロも恐れるスピッツの才能!)。
 「誰も触れない二人だけの国」=「天国」というのは容易に推測出来るし、洋楽の有名どころで言えば、A SONG FOR YOU の中の、
 "I love you from where there is no place or time"(2分14秒付近~)
私は、空間も時間もないところから、あなたを愛する
の「空間も時間もないところ」なども、「天国」(あの世)の意味である。
 「後追い自殺」と言えば、デュラン・デュランのオーディナリー・ワールド(1993年、平成5年)は、これを”何とか踏みとどまろうとする”曲である。
 大切な人と別れた(生き別れか死に別れかは不明)彼は、"ordinary world" (ありふれた日常)を喪失し、途方に暮れる。
 というか、完全に世界は崩壊してしまっている。
 だが、「ロビンソン」とは異なり、彼は、日常を取り戻し、”生き延びよう”としている。
 よい訳が見つかったので引用してみる。
 「But I won't cry for yesterday
 でも昨日のために泣いたりなんてしないよ
 There's an ordinary world
 そこにはいつものありふれた世界があるから
 Somehow I have to find
 とにかく僕は見つけなければいけない
 And as I try to make my way
 普通と言える人生を
 To the ordinary world
 自ら切り開かなければいけない
 
 メロディーもさることながら、一流の詩人が書いたような歌詞も素晴らしい。
 少なくとも、この彼は、「終わらない歌ばら撒いて」自殺することはないだろう。
 
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トイレに耳あり

2023年07月10日 06時30分00秒 | Weblog
ダンスマガジン2023年8月号(三浦雅士さんによる菅井円加さんへのインタビュー)p44~50
三浦「知人からの情報ですが、一幕が終わった後の女子トイレで、「部活のころを思い出して、胸が詰まったわ」といった会話が聞かれたとのこと。ニンフたちのなかのシルヴィアの役柄をとてもよく理解した、とても鋭い指摘だと感心しました。教師や部長に可愛がられる子は絶対妬まれる。そういう子の特徴がよく出ていた。
・・・
菅井「私はコンクールが嫌いだったんですよ、海外のコンクールはさらに大規模だというイメージもあって
三浦「知り合いが大勢いたとおっしゃったけれど、コンクールに出れば出るほど嫌いになった?
菅井「会場の雰囲気から何もかも。私はバレエを楽しんで踊りたかったから。コンクールで友だちができることは嬉しいんですけれど、激しく競い合わないといけない。それがすごく嫌いで、「なぜ順位をつけるんだろう?」「なぜこんな辛い思いをして踊らなきゃいけないんだろう?」と思っていました

 「シルヴィア」1幕では、ディアナ(部長)のもと集団(部活)で狩り(部活動)に励む少女たちの情景が出て来る。
 シルヴィアはディアナの寵愛を受ける優等生であり、”男子禁制”の集団なので、アミンタと交流することも許されない(主体と客体の間)。
  この状況が、東京文化会館の女子トイレ室では「部活」と形容されていた。
 この会話を、三浦さんの知人である女性が聞いていて、三浦さんに伝えたのである。
 まさに「トイレに耳あり」である。
 三浦さんと言えば、バブル時代は蓮實重彦柄谷行人などといった論客たちとよく絡んでいた記憶がある。
 今では三人とも別々の方向に進んでしまったが、この3人の中で最も「身体性」に関心が強いのは三浦さんだろう。
 そして、彼は東京文化会館をホームグラウンドとして、今やその隅々まで支配しているかのようだ。
 それにしても、ローザンヌ国際バレエコンクールで1位に入賞した菅井さんが、「コンクールが嫌いだった」というのは意外だった。
 だが、彼女の常にリラックスした、(有吉京子先生いわく)「自分自身に対する信頼」に満ちた立ち居振る舞いは、「コンクール三昧」の過去を克服した結果生まれたものかもしれない。
 
 

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死なないジュリエット

2023年07月09日 06時30分00秒 | Weblog

 奇遇だが、先日のロイヤル・バレエ「ロミオとジュリエット」と同様に、最前列・中央付近の席が取れたので大満足である。
 但し、字幕が見づらいのが難点。
 1幕でやたらとフィンガー・スナップ(指パッチン)が出て来るのが面白く、「シンフォニック・ダンス」でも、オーケストラの団員さんは冒頭でみんなこれをやるのである(楽譜の解釈(2))。
(それにしても、バーンスタインが "America" を「シンフォニック・ダンス」に入れなかったのは理解できない。”Tonight” はダンス要素が希薄だから(バレエとは違い、バルコニー上でのダンスは危険)やむを得ないとしても。)
 よく指摘されているのが、「ウエスト・サイド・ストーリー」でジュリエット役=マリアがラストで死なないのは不可解だという点である。
 これは、やはり原典にあたるのが良いだろう。

Capulet.  As  rich shall Romeo's by his lady's lie --- Poor sacrifices of our enmity!
彼の愛妻の像の傍に、それにおとらぬ貴い(=純金の)ロミオさんの像を並べましょう。可哀想に、われわれ(老人)の宿怨の犠牲になった者たちよ!)(p296)

 モンタギュー家とキャピュレット家の間のレシプロシテの応酬の中で、結果的に、ロミオとジュリエットは”犠牲”、つまりéchange の対象となってしまった。
 ロミオはマーキューシオを殺されたことの報復(とはいえ、正当防衛に近いが・・・)としてティボルトを殺し、結局は自殺することとなったし、これを見たジュリエットも自殺するという風に、レシプロシテの連鎖が続くわけである。
 これに対し、ミュージカル(演出・振付のジェローム・ロビンス)の方は、トニーは報復行為により殺害されるものの(この点では原作よりレシプロシテ原理が明瞭にあらわれている)、マリアは死なないストーリーとなっている。
 その理由を考えるうえで参考になるのは、「近松物語」の次のセリフである(「誰のために法は生まれた」p51~に見事な解説がある。)。
おさんさん。お覚悟はよろしゅうございますな
 「私のために、お前をとうとう死なせるような事にしてしもうて。許しておくれ
何をおしゃいます。茂兵衛は、喜んでお供するのでございます。今輪の際なら、罰も当たりますまい。この世に心が残らぬよう、一言お聞きくださいまし。茂兵衛は、茂兵衛はとうから、あなた様をお慕い申しておりました
ええっ! 私を?
はい。さあ、しっかりと、しっかりと掴まっておいでなさいませ。 さあ・・・ おさんさん。どうなさりました? お怒りになりました? 悪うございました
お前の今の一言で、死ねんようになった

 何と、おさんは、茂兵衛と一緒に死ぬことを拒否した。
 これが、échange の拒否=レシプロシテの切断にあることは明らかだろう。  
 つまり、マリアが死ななかったのは、ジェッツとシャークスとの間のレシプロシテの連鎖を切断し終了させるためだったと解釈することが出来るのである。
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バイナリデータ

2023年07月08日 06時30分00秒 | Weblog
 「訴訟関係人に取材すると、前記のとおり、バイナリデータに着目して人為的な消去を言い当てたのは裁判官その人のようである。・・・
 この点、判タの記事では、「音が周波数の異なる波の重ね合わせであること、中学ないし高校の物理や情報で学習するレベルの知識を使用したものとなり、法律家が有すべき一般教養の範囲といって差し支えない」とされている。
 裁判官が言い出すまで、誰も愛知県警の証拠改ざん痕跡に気付けなかったわけであるから、相当高度な注文をされている、という気もするのだが、他方で、基本だよねと言われれば否定は出来ない。

 裁判官が捜査機関による証拠改ざんを見抜いた事案であり、裁判官あっぱれである。
 だが、原告代理人も、さらには被告の指定代理人すら改ざんに気づいていなかったということのようなので、事態は深刻である。
 これでは冤罪がなくならないわけだ。
 もしかすると、この裁判官は、デジタルデータに詳しい、理工系出身か、あるいはIT関係の仕事をしていたのかもしれない。
 そうだとすれば、そのような人材が法曹界に入りやすくなったという意味で、ロースクール制度には一定の成果があったと言えるかもしれない。
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こどもと若者

2023年07月07日 06時30分00秒 | Weblog
 「韓鶴子氏のものとされる音声 「今の日本の政治家たちは統一教会に対して、何たる仕打ちなの。家庭連合を追い詰めているじゃない。政治家たち、岸田を、ここに呼びつけて、教育を受けさせなさい。分かってるわね」 信者 「はい」 

 「政府は来年度からの「異次元の少子化対策」の財源について、「徹底した歳出改革」を軸に確保する方針だ。3年間の集中期間中に積み上げる年3兆円規模の追加財源のうち、公的医療保険料の引き上げなど新たな負担は1兆円程度に抑制。2兆円規模を、社会保障費の歳出削減や既にある予算の活用などで捻出することを目指す。

 日本では、こどもと若者を主なターゲットとするいくつかの宗教団体が数十年前から蠢動してきており、その中には、法律や条例などに対して大きな影響を与えてきた団体もある(子どもと家庭(4))。
 この勢力が政界の中心(というか頂点)にまで食い込んでいることは、昨年以降、世間一般に明らかになったところだが、上のニュースを見ると、依然として同様の活動を続けているようだ。
 なので、私などは、「異次元の少子化対策」も疑いの目で見ており、資金が回りまわってこの集団に流れていくことを懸念している。
 今回の政策で言うと、例えば”リスキリング”関連の補助金が、NPO法人などを通じて例の団体に”上納”される可能性が考えられる。
 いずれにせよ、若者の約2分の1が非正規雇用であるような状況で、少子化が解消できるわけがない。
 「こども」は近い将来「若者」になるわけだが、「若者」はこういう風に抑圧されているのである。
 この問題に全く手を付けない少子化政策は、実効性なしと断言してよいだろう。
 
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本当は怖い平成ヒットソング

2023年07月06日 06時30分00秒 | Weblog
 職業柄、言葉には敏感なため、歌を聴いているときも歌詞の意味が気になる。
 そんな中で、平成時代のヒットソングを振り返ってみて、恐ろしい歌詞が含まれているものを発見した(ネットでも指摘されているようである。)。
 代表的なものを2つ挙げてみる。

① 最後の雨(中西保志)
 ”誰かに盗られるくらいなら 強く抱いて 君を壊したい
 
 このくだりが示しているのは、まさしく譲渡担保権者、ストーカーやDV加害者の心理であり、これが極限まで進めば犯罪になるだろう(譲渡担保を巡るエトセトラ(9))。
 もっとも、昭和の時代には、「骨まで愛して」という被害者側の心理を描いた歌もあるので、この2曲を「共依存ソング」としてセットで論じるべきかもしれない。

② おっとCHIKAN!(おニャン子クラブ)
 ”無実のその手つかまえて ちょっといじめちゃおう!
 女の子の悪だくみよ
 この人はCHIKAN!
 大きな声で この人はCHIKAN!
 みなさん一緒に退治しましょ
 ストレス解消(ストレス解消)
 ラッキー!

 もはや解説の必要もない、痴漢冤罪を生み出す若い女性の心理を暴いた歌詞である。
 「わいせつ事犯において、加害者と被害者との間に面識がない場合、被害者には虚偽を述べる動機がないことから、その供述には高度の信頼性が認められる」と断言する刑事裁判官たちは、この曲を十分分析しておく必要があるかもしれない。

  「とりわけ、犯人と被害者との間に事件前にまったくつながりがない場合、よほどの事情(たとえば、被害妄想、虚言癖)がない限り、被害者が犯罪の被害がないのにこれがあったように故意の虚偽供述をして被告人に無実の罪を着せるなどという事態は考えにくい。なぜなら、通常の場合、被害者がそのような事態を作り出す動機も利益もないからである。利益がないどころか現実的に考えてみると、被害者にとっても犯罪の被害を訴え、警察、検察庁で供述をし、法廷で被告人の面前で被害状況を述べるのは実は大きな負担を背負うことになるのである。いわんや性犯罪のような被害者にとっても、できることなら公にしたくない被害を公の場で供述しなければならない場合はそうである。そのような負担を負ってまで、虚偽の被害供述をする者は通常いないと考えるのが、経験則に合致している。」(p477)

 こうした刑事裁判官の”経験則”が、「無実のその手をつかまえ」る「女の子の悪だくみ」に、つけいるスキを与えているかもしれないのである。

 
 
 
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言葉に注目

2023年07月05日 06時30分00秒 | Weblog
 「【第4幕】
ロドルフォとマルチェッロは元恋人に想いを馳せて仕事がはかどらない。ショナールとコッリーネと共に騒いでいると、ムゼッタが瀕死のミミを連れてくる。皆で所持品を質に入れて薬代にしようとするが、時すでに遅く、ミミは、望み通りロドルフォの側で息を引き取る。
 演出家の粟國淳氏「ところで、若い時は誰しも、人生経験や学問も足りないからこそ、何事にも形から入ろうとする傾向がありますね。マルチェッロの絵に対するこだわりもそうですが、コーッリーネにもそんなところがあります。
小難しいラテン語を引用しても、誰からも「フィロソフォ(哲学者)とは呼びかけられずじまいです。でも終幕で<外套のアリア>を歌い終わった彼は、ショナールに向けて「それぞれが出来ることをしよう」と告げますが、それは、コッリーネが本物の悟りを得た証なのです。だからこそショナールも思わず<哲学者よ、本当だね/Filosofo, regioni!>と応じます。とても印象的なシーンです。」(公演パンフレットより)

 オペラを観る/聴くときは、ほぼ必ず事前に台本を音楽之友社の対訳シリーズ(オペラ対訳ライブラリー プッチーニ ラ・ボエーム)などで予習して臨む私だが、粟國さんが引用したくだりは不覚にもスルーしてしまっていた。
 このオペラは、最終幕(4幕)のミミの”みとり”がクライマックスなわけで、当然4幕のやり取りは耳をダンボにして聴く必要がある。
 やはり、自分のテキストの読みが甘かったと反省する。
 「それぞれが出来ること」というのは、コッリーネにとっては古外套を売って耳の薬代に充てること、そしてショナールにとっては部屋を去ってロドルフォとミミを二人きりにしてあげることなのだった。
 

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入学の「権利」?

2023年07月04日 06時30分00秒 | Weblog
 「米連邦最高裁は29日、大学の入学選考で黒人などの人種的少数派を優遇するアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)について、憲法の定める「法の下での平等」に反するとの判断を下した。

 「これらに照らすと、優遇措置は過去における差別の埋め合わせとしてでははなくもっぱら学校における多様な学生の確保の目的でのみ許され、しかも人種的な特別枠を設けたり、人種を理由に自動的に入学を認めることは許されず、人種はあくまで考慮すべきさまざまな事情の一つとして考慮することが許されるに過ぎないことになろう。」(p414)
 「Grutter v. Bollinger, 539 U.S. 306 (2003) では、・・・多様性確保というやむにやまれない利益を実現するための限定的手段であるとして、その合憲性が支持されている。ただ、最高裁は、いつまでも優遇措置を認めることに躊躇し、25年を経過すれば、優遇措置も必要なくなることを示唆した。」(p413)

 今日はアメリカの独立記念日であるが、アメリカ司法の変容を象徴するようなニュースである。
 一般に、この種の事件では、受験生が原告となって、アファーマティヴ・アクションを採用している学校などを訴えるのだが、「そもそも入学の「権利」などというものが認められるのだろうか?」という観点からのアプローチもある。
 法哲学者ロナルド・ドウォーキンの主張がその代表である。

 「多様性を根拠とするアファーマティブ・アクション擁護論は、・・・入学許可を学生への見返りではなく、社会的価値のある目的を達成するための手段と見なす。」(p221)
 「・・・権利を重視する法哲学者のロナルド・ドゥウォーキンは、アファーマティブ・アクションにおける人種の考慮は誰の権利も侵害しないと述べる。・・・おそらくホップウッドらが求めているのは、フットボールがうまいことやアイダホ州出身であること、無料食堂でボランティアを経験したことなどではなく、学業に関する尺度のみで審査される権利なのだろう。・・・つまり入学選考では、学業面での優秀さのみを指針とするべきだというわけだ。
 ・・・ここに多様性を根拠とするアファーマティブ・アクション擁護論の核心をなす、根源的だが賛否のわかれる主張がある。それは、入学許可は学生の能力や徳に報いるための名誉ではない、というものだ。・・・つまりドゥウォーキンは、学生の能力や徳に報いることが入学許可の正義ではないと言っているのだ。」(p224~226)

 個人を「手段」とみなすのであればカント主義の立場からはタブー中のタブーであり(ところが、カント主義者でアファーマティヴ・アクションに賛同する人は多い)、賛否の分かれるところだが、ドゥウォーキンは、要するに、「能力・徳の見返りとして入学許可を求める権利」は存在しないと言っている。
 これは、ある意味では常識的な発想とも言える。
 例えば、法律で、全ての大学に対して、面接などを実施せず、内申書なども一切考慮せず、ペーパーテストの点数だけで入学許可の判断を行うことが義務付けられたとすれば、一般の常識ある人たちは違和感を抱くのではないだろうか?
 これだとむしろ、スポーツなどに打ち込む学生に対する差別になって、違法とされかねないだろう。
 こうなってしまうのは、入学の「権利」なるものを想定してしまうからである。
 このことは、就活の場面に置き換えると分かりやすい。 
 たとえば、学生には、企業に対して、「一流大学出身であり学業優秀である自分を正社員として採用することを求める権利」なるものが認められるだろうか?
 この問題については、「企業には(契約の自由の一つである)「採用の自由」が認められる」という説明で片づけられてしまうが、同じことが大学に当てはまらない理由は見当たらない。
 ただ、大学は、営利企業とは違い、大学が本来追及すべき善に応じて入学許可を公平に判断すべき義務を負うこととなる。
 それは、サンデル(&ドゥウォーキン)によれば、
 「公平性の条件は二つしかない。一つは偏見や侮蔑によって不合格にされる者がいないこと、もう一つは大学が定めた使命とかかわる基準によって出願者を審査することだ。」(p236)
ということになる。
 この考え方からすれば、大学が定めた使命及びそれに基づく(憲法を含む公序に反しない)アドミッション・ポリシーの公開並びに選考過程の可視化(少なくとも事後的に検証可能であること)は必須条件だろう。
 さて、こういう風に見てくると、もちろん個別事案の事実関係にもよるが、アファーマティヴ・アクションが違憲であるという結論を導き出すことは、むしろ難しいのではないかという気がするのである。
 
 
 
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言葉にならない(2)

2023年07月03日 06時30分00秒 | Weblog
 「「ロミオとジュリエット」はシェイクスピアの国のバレエ団の金看板と呼べるレパートリー。過去最強ともいえるスター陣の競演を連日見比べることができると同時に、ソリストから群衆までが物語の中で生きぬくこのバレエ団の演劇性が余すところなく味わえます。

 運よく最前列・中央付近の席を取ることが出来たので、環境は最高。
 指揮者のクーン・ケッセルズさんとの距離は2メートルもない。
 おかげで、舞台と音楽だけでなく、ケッセルズさんの指揮と鼻歌まで堪能することが出来た。
 この日のキャストは、ジュリエット:マリアネラ・ヌニェス、ロミオ:ウィリアム・ブレイスウェル。
 まず、41歳のヌニェスの脚が細く見えるのに驚く。
 というのも、昨年のロイヤル・バレエ・ガラで来日した際は、例によって筋肉質で逞しい脚が目立っていたからである。
 1年で脚を細くするというのはおそらく不可能だろうから、これはやはり衣装の効果なのだろう。
 他方、相手役のブレイスウェルは、映画版でロミオ役を務めていることもあり、イメージ通りのロミオ、要するに「ザ・ロミオ」という印象である。
 私は、これまで新国立劇場(マクミラン版)とK‐Ballet(熊川哲也版)を観ているのだが、真っ先に気づくのは、ロイヤルのダンサーたちは、コール・ドに至るまで全員が「顔で演技している」ということである。
  舞台の隅々まで・一人一人観察したのだが、例外なく表情をフルに使って演技している。
 これに比べると、日本のバレエ団は、特に男性ダンサーの表情が乏しく見えてしまう。
 さて、今回私が一番感動し、かつビックリしたのは、1幕ラストの「バルコニーのパ・ド・ドゥ」のラスト・シーンである。
 バルコニーでロミオを見送るジュリエット(ヌニェス)が、感極まって、「はぁ~ッ!」という大きなため息を漏らしたのである。
 この瞬間私は、全身の力が抜けてしまった。
 ヌニェスは、到底言葉では表現出来ないほどの喜びを、身体の動き=ダンスで表現するのではなく、ため息で表現したのである。
 41歳の(離婚歴のある)女性が、これだけで13歳の少女に見えてしまう。
 なんだかもうこれで「お腹いっぱい!」という感じになってしまった。
 
 
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パクリ疑惑(4)

2023年07月02日 06時30分00秒 | Weblog
 「最終的にヴェルディが選択した題材は、『椿の花の貴婦人』であった。最初の台本提出期限の七月末から遅れること約三カ月弱、まだ検閲の最終承認を得てはいなかったが、ようやくフェニーチェ劇場のための題材を決定したヴェルディは、初演が迫る≪イル・トロヴァトーレ≫の作曲と並行して、引き続きこの『椿の花の貴婦人』の台本化と、その本格的な作曲に向けた音楽構成の組み立てやスケッチを書き進めていくのであった。・・・
 『椿の花の貴婦人』のオペラ化にあたって、ヴェルディ達はオペラの題名を≪愛と死≫とした。その新たに付けた題名が示す通り、愛と死をその本質的なテーマとするオペラを作り上げることにしたのである。
 一度火が付いたヴェルディは、検閲の許可を得るための僅かな時間さえも待ちきれず、今度はベルディが催促する側に立った。ヴェルディに促されたピアーヴェは十月二十九日、提出したばかりの≪愛と死≫の許可を催促する手紙をサンターガタからブレンナに送った。」(p78~79)
 (ヴェルディの手紙)「1853年1月1日 ローマ
 ヴェネツィアのために取り組んでいる『椿の花の貴婦人』は、恐らく≪トラヴィアータ≫というタイトルになるでしょう。現代の物語です。・・・」(p98)

 ヴェルディたちが「椿姫」に付けたもともとの題名は「ラ・トラヴィアータ」(道を誤った女)ではなく、「愛と死」だった。
 上に引用した出来事は1852年のことであり、その時点で既にフランチェスコ・マリア・ピアーヴェは「愛と死」の台本(初稿)を完成させていたことになる。
 何やら「愛の死」(Liebestod)と紛らわしい題名だが、ワーグナーが「トリスタンとイゾルデ」の台本を完成させたのは1857年とされているので、「愛と死」=ピアーヴェとヴェルディの方が「愛の死」=ワーグナーより5年ほど早い。
 ところが、年が明けるや、ヴェルディの気まぐれによって、「愛と死」は「ラ・トラヴィアータ」に題名が変更されることになったのである。
 もし「愛と死」のままだったら、ワーグナーとしては、「愛の死」(初演時は独立した楽曲として演奏された)という題名を付けることが出来ただろうか?
 しかも、ややこしいことに、1859年にワーグナーはヴェネチアで過ごした時期があるので、フェニーチェ劇場 で「ラ・トラヴィアータ」を観ていた可能性が考えられる。
 そして、その内容に合わせて、筋書きを修正した、あるいは曲想を得た、などという可能性も考えられる。
 そうすると、「アイーダ」は「トリスタンとイゾルデ」のパクリであるという「パクリ疑惑」(パクリ疑惑(2))に加えて、「トリスタンとイゾルデ」がそもそも「椿姫」をパクったものではないかという疑惑が生じてくるのである。
 
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