Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

12月のポトラッチ・カウント(1)

2024年12月21日 06時30分00秒 | Weblog
第一部 
日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)
 渡し場の段
木下順二=作 二代野澤喜左衛門=作曲
瓜子姫とあまんじゃく(うりこひめとあまんじゃく)
井上ひさし生誕90年記念
井上ひさし=作 野澤松之輔=作曲
望月太明藏=作調
金壺親父恋達引(かなつぼおやじこいのたてひき)
―モリエール「守銭奴」より―

 今月の国立劇場文楽公演は3部制。
 多忙な月なので、全部観る時間がなく、泣く泣く断念したのがこの第一部である。
 もっとも、社会学的・法学的分析の対象となるのは、井上ひさし氏の「金壺親父恋達引」のみである。
 原作はモリエールの「守銭奴」ということだが、これにもさらに元ネタがあり、プラウトゥスの「金の小壺」らしい(喜劇の典型を完成したモリエール)。
 プラウトゥスはギリシャ作品の輸入が多く、これにも実は元ネタがあったそうだ。
 だが、オリジナルのギリシャ版「金の小壺」は現存するかどうかを含めて不明と言うことらしい。
 呉服屋:金仲屋の主人:金左衛門は、その名の通り守銭奴。
 彼には、三十両の持参金付きで町娘が後妻に来ることになっている。
 その町娘というのがお舟で、実は彼女は金左衛門の息子:万七と相思相愛の仲なのである。
 要するに、本作は、父と息子が一人の娘を巡って争うという、特殊な三角関係の物語である。
 プラウトゥスのお定まりのストーリーの型は、
 「息子が友人たちに助けられながら、金満の父を出し抜いて娘といっしょになる
というもので、本作もおおむねこれを踏襲しているようだ。
 
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カタバシスからアナバシスへ、あるいは「貴方なら弾けますよ」

2024年12月20日 06時30分00秒 | Weblog
 「コンクールで演奏し優勝を勝ち取ってから15年。
 ベートーヴェン晩年の傑作ハンマークラヴィーアに全身全霊をかけて挑む渾身のリサイタル!
<曲目>
ドビュッシー:版画
プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第7番《戦争ソナタ》
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第29番《ハンマークラヴィーア》
 
<アンコール曲>
ベートーヴェン:ピアノソナタ第8番「悲愴」第2楽章
坂本龍一:戦場のメリークリスマス
ベートーヴェン:ピアノソナタ第14番「月光」第3楽章

 いつも以上に気合の入った辻井さんは、蒸気機関車のように息を吐きながら激しく鍵盤を叩き続ける。
 ボルテージは「戦争ソナタ」の1楽章でピークに達したようだ。
 この章は「不安との闘い」を表現するメロディーが随所に登場するのである。
 そのせいか、演奏途中でピアノの弦が切れてしまった。
 1楽章の演奏が終わると、辻井さんは立ち上がり、
 「弦がきれてしまいました。このまま演奏を続けるのは難しいので、いったん調律師さんに調整してもらいます
と述べて舞台袖に下がり、調律師さんが登場。
 10分くらいかけて弦を張り直すと、お客さんから拍手が沸き起こり、続いて辻井さんが再登場。
 何事もなかったかのように2楽章以下を見事に演奏した。
 後半は「ハンマー・クラヴィーア」で、辻井さんが今最も弾きたい曲らしい。
 大変な難曲だが、とりわけ3楽章は、若いピアニストだと、ハンス・フォン・ビューローから
貴方にはまだ弾けません
と言われてしまう(貴方はまだ若すぎます)。 
 何度か聴いているはずの曲だが、今回、3楽章の秘密が分かったように感じた。
 一度人生の地獄を経験した人間でなければ弾けない楽章なのである。
 私見では、2楽章は「カタバシス」、つまり「冥界への下降」であり、3楽章は「アナバシス」つまり「この世への上昇」である。
 単純化すると、3楽章は「死」から誕生」又は「再生」への道をあらわしている。
 ポイントは、まず真暗な冥界に来てしまっているのではないかという感覚が生まれるところである。
 ベートーヴェンは山歩きが好きだったそうだが、そこから連想すると、3楽章の冒頭部分は、山で遭難して夜になってしまった状況に似ている。
 真っ暗闇の中、周囲を岩と崖に囲まれて身動き出来ない絶望的な状況を、辻井さんは見事に表現する。
 目の見えない彼が、自身の内面世界の一つの側面を、そのまま音に変換しているように感じるのである。
 だが、周囲を手探り(足探り)するうちに細い道が見つかり、それを辿っていくと、枝、あるいは細いロープのようなものが手に触れる。
 それを掴んで進んで行くと、小さい穴から差し込む光が見えてきた。
 この世に辿り着いたのである。
 ・・・というのが3楽章で、4楽章は、ケルビムたちのダンスと跳躍が描かれているかのようだ。
 ハンス・フォン・ビューローも、辻井さんには、はじめから
貴方なら弾けますよ
と言っていたのかもしれない。
 それにしても、この曲と「第九」ほどベートーヴェンらしい曲は見当たらない。
 この曲は、「ピアノ・ソナタにおける『第九』」のような位置づけになりそうな気がする。
 ロマン・ロランの次の言葉が、その理由を説明しているように思える。

 「親愛なベートーヴェン!彼の芸術家としての偉大さについては、すでに十分に多くの人々がそれを賞賛した。けれども彼は、音楽家中の第一人者であるよりもさらにはるかに以上の者である。・・・
 そしてわれわれが悪徳と道学とのいずれの側にもある凡俗さに抗しての果のない、効力の見えぬ戦のために疲れるときに、このベートーヴェンの意志と信仰との大海にひたることは、いいがたい幸いの賜ものである。彼から、勇気と、たたかい努力することの幸福と、そして自己の内奥に神を感じていることの酔い心地とが感染してくるのである。」(p73)
 
 
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身を引く?

2024年12月19日 06時30分00秒 | Weblog
  • 指揮:ジョナサン・ノット(東京交響楽団 音楽監督)
  • 演出監修:サー・トーマス・アレン
  • 元帥夫人:ミア・パーション
  • オクタヴィアン:カトリオーナ・モリソン
  • ゾフィー:エルザ・ブノワ
  • オックス男爵:アルベルト・ペーゼンドルファー
  • ファーニナル:マルクス・アイヒェ
 ジョナサン・ノットが指揮するオペラはハズレがない印象だし、ウィーンフィル+バイエルン放送響とセットで買うと割安になるので、反射的にチケットを買った。
 期待したとおり、海外から招いた歌手陣の声量と表現力が素晴らしい。
 まず、ミアー・パーションの
 「時とは ふしぎなもの
で始まる1幕後半の元帥夫人の独唱が心に沁みる。
 彼女一人だけが高い山の頂きにいるようで、歌手のヴィジュアルとも相まって、「女神の孤独」という言葉が自然に浮かんでくるのである。
 もっとも、元帥夫人は、この時点では自分が神(女神)のレベルに達していることには気付いていないようなのだが・・・。
 ちょっと勿体なかったのは1幕ラストの演出である。
 私見では、今まで観た中でベストの演出は、新国立劇場のジョナサン・ミラーの演出(リヒャルト・シュトラウスばらの騎士)である。
 一人部屋に取り残された元帥夫人は、大きな鏡の前に立ち、煙草を吸いながら、もう若くはない自分の姿をまじまじと見つめる(この間、オーケストラは休止)。
 この演出は、どうやら中高年の男性から絶大な支持を得ているらしい(伝聞)。
 2幕の主役はオックス男爵となるが、アルベルト・ぺーセンドルファーの歌と演技が素晴らしい。
 2メートル以上はあろうかという巨漢で腹も出ている彼は、立ち上がったクマのようである。
 さて、このオペラのピークは、3幕ラストの三重唱である。
 解説本ではよく「三角関係を回避すべく、若い二人のために身を引く元帥夫人」などと説明されている。
 だが、台本を読む限り、そのような解釈は正しくないと思う。
 ”Geh' Er doch schnell und tu Er was Sein Herz Ihm sagt.
(早く行きなさい、あなたの心のままに)
とあるとおり、元帥夫人はオクタヴィアンの自由を尊重しただけで、「身を引いた」わけではないのだ。
 そして彼女は、当時の習慣にならって「愛のない結婚」を余儀なくされた自分とは違う道を、オクタヴィアンとゾフィーに歩んでほしいと願ったのである。
 これこそが、「正しいやり方で」愛することなのであり、ここにおいて元帥夫人は神(女神)のレベルに達したと思う。
 この三重唱は、R.シュトラウスの葬儀でも演奏されたというが、それは当然のことだろう。
 彼の最高傑作なのだから。
 

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高い?気高い?

2024年12月18日 06時30分00秒 | Weblog
 R.シュトラウス:歌劇『カプリッチョ』より弦楽六重奏曲
コダーイ:ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲 作品7 [三浦、宮田]
シェーンベルク:浄められた夜 作品4 

 「室内楽をもっと身近に。安らぎに満ちた濃密な音楽を日常に。AGIO(アージョ)は"くつろぎ"や"ゆとり"を意味するイタリア語。かしこまらず、ゆったりと音楽を楽しんでいただくための室内楽の祭典です。
というコンセプトのコンサート。
 昨年が初回だったのだが私は気付かず、聴きに行くのは今回が初めてである。
 多忙な時期でもあり、1コマしか行けない中で選んだのが「浄められた夜」。
 1曲目の「カプリッチョ」は、甘美なメロディが滑らかに流れ、まったくザラつくところがない。
 要するに「心地よい曲」なのだが、リヒャルト・シュトラウスにもこんな側面があったのかと驚く。
 2曲目のコダーイは、ちょっと聴くとすぐ作曲したのが誰か分かる感じで、宮田さんによれば、
 「お互いが戦い合うような激しさがありながら、ほんの少しくずれただけでもすべてが崩れ落ちてしまうような繊細さも必要です。
 確かに、中央アジア的な民族舞踊と格闘技の間を行ったり来たりする、緊張感あふれる曲である。
 さて、メインの「浄められた夜」だが、シェーンベルクの曲の中では聴きやすい曲とされているらしい。
 実際、初めての私も違和感や眠気を感じることなく聴くことが出来た。
 横溝さんも指摘するとおり、視覚に訴えかける曲のようで、
 「なにか絵を思い浮かべながら音楽を聴いていただければと思います。
 私は、オーソドックスに、「冴え冴えとした月あかりに照らされた冬、林の中の道を、男女が語り合いながらゆっくりと歩いている場面」を思い浮かべながら聴いた。
 「オーソドックス」というのは、元となるリヒャルト・デーメルの詩の設定がおそらくそうだからである。
 もっとも、この詩の訳は簡単ではない。
 例えば、最終行:
 ”Zwei Menschen gehn durch hohe,helle Nacht. 
の訳は、
① ふたつの人影が気高くも、明るい夜の中を歩いてゆく浄められた夜 Op.4 )。
② 二人の人間が明るく高い夜空のなかを歩いていく浄められた夜 日本語訳)。
という風に、”hohe” の解釈を巡って訳し方も違ってくる。
 難しいところだが、私見では、"hohe" は普通に "Nacht" にかかるとみた上で、”浄められた”二人が、この世界を離脱して高み(「高い夜空」)にのぼったことをうまく捉えた②の方が好みである。


 
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誰かに似ている(2)

2024年12月17日 06時30分00秒 | Weblog
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第27番 ホ短調 Op.90
ショパン:ノクターン第14番 嬰ヘ短調 Op.48-2
ショパン:幻想曲 ヘ短調 Op.49
ブラームス:4つのバラード Op.10
プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第2番 ニ短調 Op.14 
<アンコール曲>
ショパン:マズルカ イ短調Op.67-4
プロコフィエフ:オペラ「3つのオレンジへの恋」より<行進曲>
ブラームス:ワルツ第15番 Op.39-15

 3年前はバッハに似て見えたキーシン(誰かに似ている)。
 だが、今回、ヴィジュアルがだいぶ変わっていた。
 客席からあがったのは、「やせたね~」という声である。
 そう、ダイエットしたのだろうか、胴体がほっそりとしており、顔などは骨ばって見えるようになったのである。
 もっとも、これまでが肥満レベルにあったと思うので、これはよいことなのだろう。
 彼を横や斜めから見ると、バッハではないが、見たことのある音楽家に似て見えてくる。
 27番のソナタを弾き始めた彼は、なんだかベートーヴェンに似て見えるのである。
 演奏スタイルにもやや変化があるように感じる。
 鍵盤に覆いかぶさる場面が多く、唸り声も聞こえる。
 「鼻歌派」に転向したようなのだ。
 続くショパンの2曲は、和音が”割れない”見事な演奏で、前回(3年前)と同じく、ショパンを極めつつあるという印象を抱いた。
 ほかのピアニストだと、どうしても和音が”割れて”聞こえてしまう曲なのだが、パワーで押し切ったようだ。
 後半のブラームスはやや退屈なメロディーで、お客さんもおそらく眠くなった人が多いと思うが、ラストのプロコフィエフ・ソナタ第2番は躍動感あふれる演奏で目が覚める。
 不協和音だらけでダンサブルなメロディという、プロコフィエフらしい曲で退屈しない。
 アンコールでは、日本語で曲を紹介するという、これまで経験したことのない場面を見ることが出来た。
 3年ぶりのキーシンは、心身ともに充実した状態をキープしているという印象で、安心する。
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「音型」と隠れたメッセージ

2024年12月16日 06時30分00秒 | Weblog
モーツァルト:《ドン・ジョヴァンニ》序曲 K.527
モーツァルト:ピアノ協奏曲 第23番 イ長調 K.488
モーツァルト:交響曲 第41番 ハ長調 K.551 <ジュピター> 
<アンコール曲>
ラファウ・ブレハッチ ソリスト・アンコール
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第2番 第3楽章
オーケストラ・アンコール
シベリウス:アンダンテ・フェスティーヴォ 

 N響初代首席指揮者:パーヴォ・ヤルヴィがドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団を率いて来日。
 ソリストにはラファウ・ブレハッチを招いての、オール・モーツァルト・プログラムの公演である。
 「ドン・ジョヴァンニ」序曲は、おそらくベルリンフィルやウィーン・フィルルの来日公演の通常編成の半分くらいの人数だが、済んだ響きを奏でており、「ちょうどよい」という印象。
 続くピアノ協奏曲23番のソリストはブレハッチ。
 ちなみに、オケは30人弱くらいの編成。
 前から10列目・左側ブロックの席なのだが、ピアノの音がやや小さく聴こえる。
 位置取りの関係もあるだろうが、ちょっと調べてみたら、ブレハッチについては「フォルテの音量が足りませんのでレパートリーが限定されるタイプのピアニストだと思います。」という指摘があるようで、合点がいった。
 つまり、彼は、「音を大きく鳴らさない」ピアニストらしいのである。
 なので、大ホールは余り向いていないということなのかもしれない。
 ただ、ピアノの選択の問題があるかもしれず、スタインウェイではなくファツィオリにしたらちょうどよかったかもしれない。
 演奏自体はまずまずといった感じで、アンコールでようやく本調子になったという印象を抱いた。
 面白いのは、1,2,3楽章を通じて「共通の音型を隠し味に密接に結び合っている」(パンフレットの小宮正安先生による解説)ところである。
 なぜかというと、この作風は、後半の「ジュピター」にも一部共通しているからである。
 つまり、「ジュピター」4楽章では、「「ドーーレーーファーーミ」という音型に基づくフーガを多用したソナタ形式が用いられ(ている)」という(同じく小宮正安先生)。 
 と言う風に、モーツァルトの作曲技法についてのおさらいのような選曲だった。
 オーケストラ・アンコールは、シベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」。
 厳かな雰囲気の曲で、初めて聴く人はどこか北欧の国の国歌ではないかと思うのではないだろうか?
 だが、本当は「1922年にサイナトゥサロ製作所からの依頼で、その25周年記念祝賀会のための曲として書かれた」曲らしい。
 
 「ただ、このスコアで僕が最も重要と思う部分はここです。2つ上の楽譜の青枠部分です。 
 これがモーツァルト「魔笛」の第2幕の僧侶たちの合唱「おお、イシスとオシリスの神よ」のコーダに出てくる特徴的な和声連結であることは魔笛を記憶されている方ならお気づきではないでしょうか。魔笛がフリーメイソンと関係があることは証明はできませんが可能性は高いと思われます。そしてシベリウスは確実にフリーメイソンであったのです。しかも入会日がわかっていて1922年8月18日、そして Andante festivo となった曲を注文されたのは同年のクリスマス前なのです。
 しかもそれは25周年記念祝賀会のための「祝祭カンタータ」だった。モーツァルトが自作の作品目録に記した最後の作品がフリーメーソンのためのカンタータ「我らの喜びを高らかに告げよ」 (K.623)だったのにご注目ください。発注主のサイナトゥサロ製材所(Säynätsalo sawmills)がメイソンだったのではないかと想像したくなってしまいます。

 なるほど。
 モーツァルトとシベリウスにはフリーメイソンという共通点があったようだ。
 メイソンは、握手の仕方一つとってもそれと分かる仕草をしていたらしい。
 作曲家について言えば、「音型」にそれがあらわれているということなのかもしれない。
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安心を与える人(3)

2024年12月15日 06時30分00秒 | Weblog
 「革命によりロシア帝政が崩壊した翌年──1918年、ウクライナの首都キーウ。革命に抗う「白衛軍」、キーウでのソヴィエト政権樹立を目指す「ボリシェヴィキ」、そしてウクライナ独立を宣言したウクライナ人民共和国勢力「ペトリューラ軍」の三つ巴の戦いの場となっていた。
 白衛軍側のトゥルビン家には、友人の将校らが集い、時に歌ったり、酒を酌み交わしたり...この崩れゆく世界の中でも日常を保とうとしていた。しかし、白衛軍を支援していたドイツ軍によるウクライナ傀儡政権の元首ゲトマンがドイツに逃亡し、白衛軍は危機的状況に陥る。トゥルビン家の人々の運命は歴史の大きなうねりにのみ込まれていく......。

 「白衛軍」というタイトルだが、ミハイル・ブルガーコフの戯曲「トゥルビン家の人々」の英訳版がもとの台本である。 
 つまり、二重の翻訳劇である。
 主な舞台は、あらすじにもあるとおり、ロシア革命後のキーウで暮らす白衛軍(旧ロシア帝国軍)の将校一家:トゥルビン家。
 キャスト表を見ると、いかにもニコライ(村井良大さん)が主人公であるかのようだが、実際は違う。
(余談だが、私などは、村井さんと言えば「戦国鍋TV 〜なんとなく歴史が学べる映像〜」を思い出してしまう。)
 確かに、冒頭からギターで弾き語りをしたり、戦場で活躍したり、ラストは戦傷がもとでトラウマを抱えた姿で登場するなど、露出場面は多い。
 だが、私見では、本当の主役は、レーナ(前田亜季さん)だろう。
 「白衛軍」、「ペトリューラ軍」(ウクライナ人民共和国軍)、「赤軍」(ボリシェヴィキ)が互いに殺し合いを行う中で、「白衛軍」の家に属する彼女は、次の決め台詞を放つ。

 「この人はラリオン。たった一人しかいない。どうしてこの人の命をもて遊んでいいのか?・・・

 絶望的な状況下での希望の光であり、「安心を与える人」といって良い。
 おそらく、ブルガーコフには、「アンティゴネ」のセリフ(11月のポトラッチ・カウント(4))が念頭にあっただろう。
 当然のことながら、登場する男たちは、いとこのラリオンも含め全員が彼女に求婚するのである。
 なので、「主役」と認定して間違いないと思う。
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2種類の怒り、あるいは神経症と統合失調症(8)

2024年12月14日 06時30分00秒 | Weblog
 いや、これも素人考えに過ぎず、介護の業界では、外科的治療や薬物療法ではない、「扁桃体に働きかける」方法が編み出されていた。

臨床のヒント(22:50付近~)
 「① 食事に意識を向ける。・・・食べ物の味、食感、匂いに集中し、食べることに注意を払う。
 「② 自然の中を歩く。・・・定期的に散歩し、周囲の環境や自分が経験する感覚に集中するよう患者に勧めてみましょう。
 「③ 深呼吸をする。・・・ヨガなどのマインドフルネスを行い、目を閉じて呼吸に集中する時間を持つよう患者に勧めます。

 これ以外にも、かなり古くから、骨格筋に働きかける方法が編み出されていた。

 「漸進的筋弛緩法は、エドモンド・ジェイコブソンにより開発された方法です。筋肉の緊張と弛緩を繰り返すことで身体のリラックスを導くことを目的としています。今回は簡易版を紹介しますが、文部科学省のホームページなどにも載せられているようなので、気になる方はぜひ調べてみるとよいかもしれません。
 *基本動作
腕や肩、背中といった主要な筋肉に対し、10秒間力を入れて緊張させた後、15~20秒間力を抜いて筋肉を緩める。
この基本動作を覚えてしまえば、あとは使う筋肉の部位を変えるだけなのでいつでもどこでも簡単に行うことができます。

 こうやって見てくると、感覚装置(感覚器官)に意識を向けたり、呼吸や筋肉の動作に集中するのがポイントのようである。
 年末の慌ただしい時期だが、イライラ→怒りを発しそうになったときは、私も今回得た知見を活かしてリラックスしたいと思う。
 
 


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2種類の怒り、あるいは神経症と統合失調症(7)

2024年12月13日 06時30分00秒 | Weblog
 こう考えて来ると、自然と「マインドフルネス」という言葉が浮かんでくるだろう。
 実際、CBTの中には、「マインドフルネス」を取り入れた治療法「マインドフルネス認知療法」もある。
 ざっくり言うと、「今・ここ」に意識を集中させるところがポイントのようである。
 ダマシオ理論に置き換えてみると、「情動」にどう働きかけるかという問題なのだろう。
 だが、そのためには、「情動」のメカニズムを理解しておく必要がある。
 ダマシオによれば、「情動」には「一次の情動」と「二次の情動」があるらしい。

一次の情動 「・・・私が確信している一つの可能性は、外界における、あるいは身体における刺激のいくつかの特徴が、単独に、あるいは組み合わされて知覚されると、ある情動を伴いながら、前もって構成された形で反応するようになっているということ。・・・ここで注意すべきことは、ある身体反応を引き起こすためにクマ、ヘビ、ワシそれ自体を「認識する」必要はない、つまり、正確には何が苦痛を引き起こしているかを知る必要はない、ということ。必要なことは、初期感覚皮質がある特定の実在(つまり、動物とか物体)のいくつか重要な特徴を感知し、分類し、扁桃体のような構造がそれらの<連結された>状態に関する信号を受け取ることである。巣の中のひよこはワシが何かを知らないが、広い翼をもった物体がある速度で頭上を飛ぶと、警戒し、頭を隠して反応する。」(p210~211)
二次の情動「・・・1 そのプロセスは、ある人物や状況をあなたが心に抱く意識的、意図的な熟考から始まる。この熟考は、思考のプロセスの中で構成される心的イメージとして表現される。・・・2 非意識的レベルでは、前頭前皮質中のネットワークが、前述のイメージの処理から生じる信号に自動的、不随意的に反応している。この前頭前野の反応は、どういう状況には通常どういう情動反応が組み合わされてきたか、ということに関する知識を統合している傾性的表象から生れる。言い換えれば、その前頭前野の反応は、<生得的な>傾性的表象からではなく<後天的な>傾性的表象から生れる。・・・」(p219)

 「一次の情動」は、<生得的な>傾性的表象(例:頭上を飛ぶ広い翼を持った物体)を”初期感覚皮質”が感知するところからスタートする。
 つまり、「感覚装置」が発端である。
 これに対し、「二次の情動」は、<後天的な>傾性的表象(例:想像もしなかった同僚の死のニュース)に対する「意識的、意図的な熟考」からスタートし、これが「心的イメージ」として表現され、前頭前皮質中のネットワークが「自動的、不随意的な反応」を行うことによって生じる。
 つまり、主に「前頭前皮質」が作用している。
 要するに、両者はそもそもスタートが違っており、プロセスも違っているわけである。
 もっとも、いずれの場合も、”自動的、不随意的”に行われるプロセスが介在している点に注意する必要がある。
 それは、「一次の情動」で言えば「「感覚装置」による知覚」→「扁桃体」のルートであり、「二次の情動」で言えば「前頭前皮質中のネットワークの反応」である。
 素人考えでは、あの「泣かない」上田晋也氏であっても、このプロセスだけは、定義上「コントロール不能」なのではないかとも思われる。
 少なくとも、「CBT(認知行動療法)」や「マインドフルネス」では対処することが難しい領域であるように思われる。
 

 


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2種類の怒り、あるいは神経症と統合失調症(6)

2024年12月12日 06時30分00秒 | Weblog
 「認知行動療法(Cognitive Behavior Therapy)はCBTとも呼ばれ、ストレスなどで固まって狭くなってしまった考えや行動を、ご自身の力で柔らかくときほぐし、自由に考えたり行動したりするのをお手伝いする心理療法です。・・・
 認知行動療法では、ストレスを感じた具体的な出来事を取り上げて、その出来事が起きた時に「頭の中に浮かぶ考え(認知)」、「感じる気持ち(感情)」、「体の反応(身体)」、「振る舞い(行動)」、という4つの側面に注目します。
 例として、“すれ違った友人に目をそらされた”という出来事を経験したAさんの場合を考えてみましょう。Aさんの頭の中には「嫌われているのかもしれない…」という悲観的な考えが浮かび(認知)、悲しくて不安な気持ちになりました(感情)。心臓がドキドキしたりお腹が痛くなったり…と体にも反応が出て(身体)、人目を避けて足早に家に帰り、布団に潜り込んで寝てしまいました(行動)。 …と、たとえばこのような形で4つの側面を整理します。
 このように、ストレスフルな出来事によって生じる反応を「ストレス反応」と呼びます。
 ストレス反応の4つの側面は互いに影響を及ぼし合っていて、悪循環を生み出すことが多いものです。そのため、上記のように整理して、自分のストレス反応のパターンに気づき、さらなる悪循環に陥らないように調整していくことを目指します。

 認知行動療法(CBT)の「4つの側面」は、ダマシオの4段階説と概ね対応しているようである。
 これを調整すると、例えば、「悲しみ」といった情動もコントロールできるようになる。

 「「恨みに思っているわけじゃない」と前置きしつつ「感動的なこと、つらいこと、悲しいことがあっても俺、涙が出ない。泣いたことがないぐらいの感じなの」と告白した上田。その理由には幼少期の体験があるという。
 「5、6歳の頃、親戚のおじさんが“男は人生で2回しか泣いちゃダメ”」と回想。その“2回”とは「1回目はオギャーって生まれた時、もう1回はおふくろが死んだ時」だという。「その2回以外泣くな」と念押しされた上田は「泣けない人間になっちゃった」と語った。

 だが、これを読むと、「感動的なこと」に対しても無反応になってしまったようである。
 これだと、何だか生き甲斐が失われるような気もする。
 それよりは、星野源さんのように、情動の豊かな「泣ける」人間でありたい。

 「星野は「松さんとは空耳アワードでご一緒させてもらってたんですけど(笑)、お芝居は初めてなので、それもすごく楽しくてうれしいことでした」とし、「野木さんの作品でいつも思うのは、眼差しがすごい好きだなって。今の世の中を見ている眼差しと、こうあってほしいという眼差しと。作品の中に、そういう眼差しがふわっと透けて見える作家性みたいなものを感じて、いつも胸がいっぱいになるというか。今回の脚本を初めて読んだときにも、ボロボロボロみたいな」と涙したことを回顧。「悲しいことがあるとか、スペクタクルなことが起こるわけでもないんだけど、野木さんの話だなと思って。新たなホームドラマと言われている感じもすごくわかる」と続けた。

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