パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

METライブビューイング「トリスタンとイゾルデ」

2016年11月16日 08時46分14秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

今年は自分にとってヴァーグナーの年だった
9月に名古屋の芸術劇場で演奏会形式で「ラインの黄金」
10月には新国立劇場で飯守泰次郎さんの「ワルキューレ」
そして昨日(11月15日)はMetライブビューイングで「トリスタンとイゾルデ」
 

映画で楽劇(オペラ)を見るのは初めてだ
偶然この出し物を知ったが、オペラなら何で見に行く
ということはなくて、興味があったものだけ行くことにしている
METライブビューイングは10作品あるようだが、興味をそそられるのは
「ドン・ジョバンニ」くらい?
(行けば行ったで「椿姫」も「薔薇の騎士」も良いかもしれないが、、)

音楽会へ行くときの選択の基準はまずはプログラム
田舎から都会に出かけるのはチケット代だけでなく交通費も加算されるので
慎重に考えなくてはならない
その意味では、昨日見た「トリスタンとイゾルデ」は
プログラム、指揮者がサイモン・ラトルということで無条件に飛びついてしまった

「トリスタンとイゾルデ」では自分にとって記念すべき作品で
人生で一番最初にみたオペラ(楽劇)がこれ
しかも、バイロイトで、それも日にちを変えて2回も
偶然とは言えバイロイトで本物を見られたのは、今にして思うと本当にラッキーなことだった

この思い出の作品だから日本でも、東京のNHKホール、名古屋の金山文化会館にも足を運んだ
(しかし、随分前の話で最近は行っていない)
映画形式での楽劇鑑賞 実演ほど価格はかからず、大きく見えるのでそれはそれなりに
興味深い、しかも今回はラトルの指揮だし、、

ということで、これを知ったときから楽しみにしていた
新鮮な気分を保つために「予習」はしないようにした
その場で音楽と向かい合うには妙な予想をするよりは
流れに身を任せたほうが(自分の場合は)良い

本当は昨日ではなく交通費の安い土曜日、つまり映画初日で予定していた
しかしJRにハプニングが起きて最初から見られないことになった
そこで、劇場の方にお願いして昨日の火曜日に日にちを変えていただいたた
(これは本当に助かった、チケット代が無駄になるのが避けられた)

前置きが長くなったが、映画が始まった
有名な前奏曲が奏される ラトルの音楽はどんなか気になる
だが映像があると耳よりも目の情報の方が多いようで
関心は画面に向かう
変な円のようなものが写った
時計の針のようなものがゆっくりと回る
それが何回も  そうか、これはレーダーなのか
と想像した(違っているかもしれないが)
第一幕は船でイゾルデをマルケ王のところまで連れて行くことになっているが
その船を暗示させるものかと気づいたら、その円の中に船が荒海の中を
進んでいく姿が映された
しかし、これは自分には気に入らなかった
トリスタンの一幕を知っている立場からすると、この様な具体的な見せ方は必要ない
むしろ映すんなら甲板から固定した視点で船が海の中を進んでいくほうが
良いような気がする そのほうが冒頭の水夫の音楽に繋がる

ということで、視覚的には今回は期待できないかもと思い
目を閉じて前奏曲を聴くことにした
一幕が始まる  偏見なしに見ようとしたがどうしてもある演出と比較してしまった
ある演出とは 40年も前に見たバイロイトのそれだ
バイロイトの舞台は一幕は船の帆を連想させるものが存在感たっぷりにあった
そしてイゾルデが「空気を、、」というところは 幕だったかドアだったか
を開いて 話の内容と素直に舞台が一致してた
服装も昔のお姫様や貴族のようなもので(これは怪しいかもしれないが)
今回の現代的な服とは違う
今回は(最近は)船も具体的で舞台左手に階段があって、3階建ての大きな船のようだ
しかし、どうも自分はこうした具体的すぎるのは気に入らない
バイロイトの帆があって、さあこれが船です、船の構造や部屋の雰囲気は
各自自分で想像してください、、みたいな方が好き

オペラ(楽劇)は主人公が悲劇のヒーロー・ヒロインであっても
舞台の上で活躍するのは歌手、声を維持するのに大柄な(つまり肥った)人物が
演技する  確かに声はすごい 声もいい  しかし肥った人の演ずる話の中に
集中できるかといえば、そうなるには少しの時間経過が必要
いったん慣れてしまえば気にならなくなるが
その意味でイゾルデ役のニーナ・ステンメさんがめちゃ豊満な体格ということでなくて
少し助かった トリスタン役のスチュワート・スケルトンさんはたっぷりしていたが
これは西洋人にはある体格で 許せる範囲、、

ブランゲーネ役のエカテリーナ・グヴァノヴァさんは「小林幸子」を連想してしまった
何故かは分からないが 

一幕は話の発端となる(発端はもっと前にあるが一応)
イゾルデのイライラした気持ち(恋する気持ちをコントロールできない)は
分からないでもないが、またケチをつける訳ではないがイゾルデは舞台の左右に動きすぎる 
頻繁に動き回って、あれだと気の強いワガママな女性みたいな人物設定で
自分の好みとしてはもう少し動きの少ない、気は強いが内に秘めていた思いに
今まで堪えてきたが、とうとう耐えられなくなった人物という設定のほうがいい
これは自分が日本人だからか、、西洋人の考える女性というのはあんなように
自己主張の強いのが当たり前なのか

一幕の印象的な音楽は船が岸に近づく前に奏される
緊張感に富んだ音楽、そして媚薬を飲んだ後に
バイオリンとハープで静かに奏されるあの有名な旋律
この効果は抜群で、一回聴いただけでこのシーンはいつまでも記憶に残る
このあと船は岸に着くが、あまりにもリアルなのは、、、

二幕まで少し休憩があり、その間にインタビューの映像があった
ラトル「二幕のブランゲーネの警告あたりから音楽は一気に流れていく
あのシーンは本当に美しい音楽、、みたいな事を話していた
そのとおりで、二幕の一番の聴きどころはそのところ
トリスタンとイゾルデが不倫の密会をしていて、2人だけの世界にはいっていって
その2人だけの世界がまさに2人だの客観性を欠いた世界に我を忘れている
このところのヴァーグナーの音楽は本当にすごい 
何回聞いてもある部分は毛細血管が広がりそうな、
ヴァイオリンの音に恍惚となりうそうな音楽だ
初めて聞いたバイロイトでもこのシーンは覚えている

ブランゲーネの警告が終わって、ピロートークのような会話が続く
音楽もけだるいようなもの、自分たちの思い込みの熱い世界からなる情熱的な音楽
へと行ったり来たり、、、そしてピークを迎えようとする刹那
不倫現場を抑えられる
少し品がないかもしれないが、彼らが行っているのは不倫なのだから
このところはもう少しリアリスティックな服とか様子のほうが
効果的ではないか、、と思ったりする
舞台がリアリスティックで不満なのは二幕のイゾルデがトリスタンに会うために
駆け回っている(と想像させる)部分
バイロイトでは森の中を走っていることを暗示させるように僅かな光が
右から左へ、左から右へと動いていた(ような気がする)
そして不倫現場も室内ではなくて木の下のような(このあたりは記憶が曖昧)
野外のほうが闇とかを容易に連想しやすい
メロートとの戦いも剣ではなくて今風の銃というところは少し拍子抜け
トリスタンが怪我をして終わるこの二幕の音
劇的なのだがレコードで聴くフルトヴェングラーの全曲録音のそれと比べると
フルトヴェングラーの音色が魔術的に濃厚・ロマン的なのがわかる
取り返しの付かないことが起きてしまった  というようなニュアンスの音
そんな印象は今回はなかった  しかしドラマティックだった

3幕はあの重苦しい前奏曲とそれに続くイングリッシュホルンの印象的な音楽
1幕が最初イゾルデとブランゲーネの掛け合いでスタートし
3幕はトリスタンとクルベナールの掛け合いで始まる
女の声と男の声で、対称的になっているのかな、と昔思った

正直、演出は好きじゃなかった
(素人だから好き嫌いだけで話ができる)
だから、最後は感動できるかなと不安だったが
会場映画館、暗くて良かった
終わる頃には知らず知らず頬を熱いものが流れた
手で何回か拭ったが、人に知られずに良かった

イゾルデの「愛の死」のラストシーン
バイロイトでカテリーナ・リゲンツァが背伸びするように歌っていたのを
急に思い出した
そして、バイロイト祝祭歌劇場前でチケット探してますと自分たちが
ウロウロしてたときに知り合いになっパンフレット売りのバイト(?)の女の子が
(多分今では許されないだろう階段席に座って聞いていたと思われるが)
3幕が終わって明くるなった時、何度も涙を拭っていたのを思い出した
彼女たちには母国語のドイツ語 
外国人の自分よりもっともっと深い理解の仕方をしたのだろう
そんなシーンを40年も前のことだが思い出した

ラトルの音楽の良し悪しは正直なところ分からない
多分生で聴く音は、もう少しうねるような、それでいてニュアンスに富んだ音色だったと思う
これは実演はどうだったのかを想像するしかない
現代的でメリハリがあるというデジタルの音
最近、この手のソフトに(CD)感動したことがない 
レコードはツボにハマってレコードの裏表をひっくり返して
せっかく感じやすくなっているこの機会を逃すともったいない
みたいな気がする時があるが、デジタル音源はほとんどこういう経験がない

やっぱり一番は生といういことになるが
田舎だとなかなか簡単にそれができるわけじゃない
都会に住みたいとは思わないが、唯一、音楽環境は羨ましく思う

さて、METライブビューイング 
それなりに面白かったので、もしかしたらまた行くかもしれない
しかし、音がなあ、、



 

 

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新国立劇場のワルキューレ(10月8日)

2016年10月09日 20時45分47秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

もしかして愛知県の片田舎への電車が間に合わないかもしれないと思い
一泊して観ることにした新国立劇場の「ワルキューレ」
数日前から予習をしてこの日を迎えた
 

派手な1.3幕は眠らない気はしていた
でも2幕は長いし延々と会話ばっかりで、睡魔に襲われたら(ブリュンヒルデじゃないけど)
寝てしまわない自信がなかった

ところが、何の事はない心配は杞憂に終わった
それどころか、2幕が思いの外面白かった
ストーリー的に指環の重要な要素がたっぷりはいっていて
4部作が何故「ニーベルングの指環 」と名付けられて
本当の主役は誰なのか ということも理解できたような気がした

まずは順を追って第一幕から
一幕は今回に限らず聴く機会は多いので楽勝な感じで舞台に集中
斜めになった安定感のない青い色彩の舞台
剣の刺さった大木も斜めに生えている
それが象徴的にどんな意味がるのかは自分には分からない
ただ、シャープできれいだなが第一印象
そのきれいと感じたのはジークムントとジークリンデの盛り上がる
月の光が差し込むところではなくて
フンディングの仲間が家に入る扉を開けて外の光が家に差し込むところ
ここは視覚的に印象に残った
そして一幕で一番印象に残ったことと言えば「人の声の凄さ」
鍛えられ訓練され、そして才能にも恵まれた人たちの声の凄さ
これは本当にすごい
この日のキャストは

残念ながら知らない人ばかり
セリフや歌詞を見て聞かなければならないオペラやリートは
目がしょぼくなっている自分はあまり聴かない
単純に歌詞のない音楽だけであれこれ想像するほうが楽でいい
ところが、実演で言葉と音楽が混じり合うとこうした分野も捨てがたい

この日の歌手たちを比較対象できるくらいの知識とか
たくさんの歌手の歌を聞いていれば聴く楽しみ方は違っただろうが
この日はただストーリーに集中して聴くだけしかできなかった
(それで十分なのだが)

声の凄さは体格に比例するかもしれない
パヴァロッティはとんでもなく肥満だったし、今回の主役級もみんなふくよかな体型
ドラマを観るなら興ざめしそうだが、それを圧倒的な声の力でカバーし
おデブさんは気にならなかった
昨年ウィーンで見たパルジファルはおデブさんが気になって最後まで集中できなかった
(衣装も薄汚かったし)
音楽はウエルズングのライトモチーフや剣のそれはもう少し効果的に鳴らしたり
暗示したりできそうな気がしたが、とにかく一幕はただただ声がすごいに尽きた

2幕、普段よく聴かない部分だ
この聴かないことが却って良かったかもしれない
先取りして音楽を待つのではなくストーリを楽しめた
浮気性の神(ヴォータン)、その浮気にもそれなりの理由があるのだが
ちゃんとチェックしている正妻の迫力に負けてしまい、自分の心を偽って
せっかく期待して産ませたジークムントを自らの力で滅ぼしてしまう運命を選択する
ここにすでにアルベリヒ(ニーベルング)の呪いがかかっている

4日間かけて上演するこのシリーズを通称「ニーベルングの指環」と呼ばれるのは
このアルベリヒの呪いのかかった指環を中心にして物語が進められからだ
特に表立って指環が出てくるわけではない、出てくるのは呪いにかけられた運命だけ
そしてその指環を最初手にしたのは「愛を諦めた」生物としてのアルベリヒ
愛を諦めた代わりにその指環は「世界を征服できる」力を持つ  という設定が面白い
この指環は策略によってヴォータンに取り上げられてしまったので、その取り上げられる瞬間に
指環を持つものには不幸な運命を!という呪いをかける

本当にオペラの題材としてはあまり美味しくない内容だ
権力闘争とか欲とか裏切りとか、、

話がそれてしまった
とにかく2幕は面白かったということ
そしてこの2幕は指環を楽しむためのいろんな情報が詰まっているということが分かった

しかし、それでもここの音楽は実演でないと聴き続けられないだろう

3幕
ストレッチャーが出てきた
ワルキューレの仕事(死んだ英雄をワルハラに運ぶ)を考えるとそれも分からないではないが、
いざ目前に現れると少しショックだった
音楽は2幕から雄弁に語り始めている
ライブの良さ、勢いに乗ったもの勝ちのようなもので
歌手の呼吸と音楽が寄り添って、舞台を見ないで楽譜を見て演奏しているのが
不思議な気がする
やっぱりオーケストラはオペラの演奏をすると呼吸とかノリとか
一ランクアップするかもしれない

さて有名なヴォータンとブリュンヒルデの別れ
不覚にも一瞬泣きそうになった
健気で真に勇敢な父思いの娘との別れ
そして、次に登場する英雄を暗示させる音楽

ワルキューレは終わったが、作品として単独で取り上げられるといっても
何か消化不良の気持ちが残る
先がどうなるか?その気持ちのほうが強い
まるでミステリーのとてもいい場面で中断されているような気分で落ち着かない
次の「ジークフリート」「神々の黄昏」が今すぐにでも聴きたい気分だが
会場に貼られたポスターをみて驚いた
来年6月に「ジークフリート」10月には「神々の黄昏」が上演されることになっていた

トリスタンやパルジファル、タンホイザーはまだしも指環はちょっと!
と思っていたが、いろんな解釈ができるこのシリーズは
「ハマってしまう」かも知れない 
(でも、ホント妙な物語)

とりあえず、来年も行くぞ! 


 


 

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宗次ホール「第3回 弦楽四重奏コンクール」雑感

2016年09月19日 08時34分10秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

今年は、最初から最後まで頑張って聴いた宗次ホール
「弦楽四重奏コンクール」 

昨年はスタミナ・集中力切れで途中で退席した

しかし、低価格で真剣勝負がしっかり聴けるのと
聴いたことのない曲をまとめて聴けるのに誘われて
電車賃を払って出かけた(今年は聴く方も最初から気合が違った)

大正解!
先日の3000円で聴けた(見れた)「ラインの黄金」に引き続き
チケット代2000円でほぼ一日中の音楽三昧は
コストパフォーマンスがめちゃくちゃ良くてありがたい

でも、本当は途中で退屈して集中力が切れたり、お昼のご飯を食べた後は
眠たくならないか心配だった
ところがその心配は杞憂に終わった
(それでも最後は少し疲れたが)

一団体、持ち時間は45分、ハイドンの作品から一曲
その他自由に選択した一曲が演奏されて、そのトータルの評価で順位を決定
審査員はホールの2階席に陣取っていた

最後まで聴いたが、これらの曲を録音したものを同じように集中して聴けるか
といえば 、それは絶対無理で、やはり生演奏だからこそ聴き続けられたと言える

この日演奏された曲の大半は知らない曲
知っている方を数えるほうが速い
必ず演奏されるハイドンの作品でも知っていたのは「ひばり」「5度」
自由曲はベートヴェンの「ハープ」と4番のハ短調、ドボルザークの「アメリカ」
それからバルトークの3番(CDで聴いてるはず)くらいなもの
こうなると演奏の解釈がどうのとか上手い下手などはほとんど分からない
そこで素人の強みで楽しんだほうが勝ちということで
聴いてるときに頭に浮かぶ事を勝手に楽しんだ

ところで、審査員というのは大変な仕事だ
同じ曲ならまだしも全部違う曲で実質6時間聴き比べる作業をしなければならない
難しい作業だなと思ったりする

この日の順番は

1.ブロッサム・クヮルテット
2.カルテット・ダモーレ

ここで昼の休憩45分

3.ルボワ・カルテット
4.タレイア・カルテット

5.山田弦楽四重奏団
6.ソフィア・カルテット

7.エイム弦楽四重奏団
8.ロリエ弦楽四重奏団

コンクールと言うが、この順番は評価に影響するのだろうか
最初のグループはその後の比較の対象になる(?)
それは不利なのか、それとも得なのか
それに最後の方は疲れて飽きてきて新鮮に聴いていられない(?)
これも不利なのか、、、
でも、こんなことを幾度も経験してきた人たちが審査員
審査員って大変だ

さて頭に浮かんだ勝手な連想
最初のブロッサム・クヮルテット
冒頭の音を聴いた刹那「ウィーンの香りだ」と思った
奏者の音色のせいか、ハイドンの曲のせいか、どちらか分からないが
とにかく「ウィーンの香り」という言葉が頭に浮かんだ
「ウィーンの音」ではなく「ウィーンの香り」というのが少し不思議
この最初の印象が良かったせいで、この日一日はそのままの気分で終えられたのかもしれない

ハイドンはハマってしまう作曲家ではなく、どちらかと言えば
少し気の利かない真面目な音楽家の印象があったが
この分野(弦楽四重奏)については過不足なく、バランス・収まりの良い感じだ
感情過多ということもなく、品良く、それなりにかっちりしててウィーンぽくて

ハイドンでも作品番号が若い時と後半とはすこし印象が異なる
自分は真面目なかっちりした後期よりも自由な発想力に任せた(?)初期のほうが
聴いてて楽しい(かな)

ブロッサム・クヮルテットの自由曲はフォーレの後期の弦楽四重奏曲 ホ短調 作品121
フォーレは好きな作曲家
特にピアノが入った室内楽曲はなんとも言えず美しい瞬間がある
この弦楽四重奏曲はハイドンの時代のおおらかな気分から、
近代の難しい感情の世界に入ってしまったようで、はやり後期のピアノ三重奏を
連想させる瞬間があった

このフォーレの後に聴いたカルテット・ダモーレの「ひばり」は
緊張感から開放されてホッとした

ハイドンには申し訳ないが、やはり自由曲のほうが興味深い
ベートーヴェンの「ハープ」は曲中に例の運命の動機がでてきて
吉田秀和が「ベートーヴェンを求めて」で書いていたように
彼は一生あるテーマを追い続け(使い続け)ていたのだと感じる
ベートーヴェンの曲のほうが感情的な流れの必然性が感じられる

昼ごはんの後は(結局関心があったのは自由曲ばかりだった)
ルポワ・カルテットの「アメリカ」
タレイア・カルテットのメンデルスゾーンの2番 イ短調

アメリカはよく聴く曲で、リズミックなところとメロディアスのところ
特に2楽章が心地よく、この日も堪能できた
メンデルスゾーンは初めて聞く曲
彼らしく感情表現を強く表に出すことはなく節度の中に収まっている
(4楽章では不気味というか効果的な音形もあったが)
そのなかで気に止まったのは、あのヴァイオリン協奏曲を思わせるフレーズが
時々聴こえたこと
やっぱりメンデルスゾーンも癖とか好みとか個性とか
そういう音形があるのもだと思ったりした

この作曲家独自の癖とか個性とか好みは
あとで聴いたチャイコフスキーやバルトークにもあった
チャイコフスキーは、「またやってる、いつのもあれ」という瞬間があったし
バルトークは「弦チェレ」を彷彿とさせる瞬間があった

あと少し頭に浮かんだこと
ベートーヴェンの作曲能力の凄さ
感情に伴う流れの必然性、そしてそのまとまり、更に聴衆の気持ちを捉えて
離さない魔力  これは本当にすごい(弦楽四重奏4番 ハ短調を聴いて)

興味深いものに日本人作曲家の作品があった
矢代秋雄の弦楽四重奏だ
武満みたいな音楽かな?と予想したが
武満と言うよりはシェーンベルクを連想した
畳み掛けるリズムは西洋というよりは日本を感じたが
この曲を聴く事によって武満の凄さ・独自性を再確認した

あとは、、、、
やっぱり疲れてしまった 
でも勝手にあれこれ想像することは楽しい

そうだもう一つ現場で感じたことがあった
それは男性の奏者が少ないということ
最後の最後、ロリエ弦楽四重奏団だけ男4人だったが
あとは男がいても一人で、中心となる第一ヴァイオリンは女性

男の感性による演奏は女性とは違うはず
と思い、バルトークを選んだのは男ならではと思ったりしたが
実際に出てきた音も筋肉質のたくましい音だった
スピード感もどこか女性中心のグループとは違う
ただ、これがドイツの男性による演奏だったらもう少し違う音色
なのではないかな?と勝手に想像した

ところで、コンクールと言うだけあって最後には順位がつけられた
曲が全部違う、しかも知らない曲ということで、
聴衆者のアンケートとしては自分は「もう一度聴いてみたいグループ」
という判断で2つのグループを選択した

素人だから、演奏能力よりは選曲の良し悪しが左右してしまった感はある

ところで、プロと聴衆が選んだ結果は

◆第1位 Quartet ame(エイム弦楽四重奏団)
◆第2位 Thaleia Quartet(タレイア カルテット)
◆第3位  Quartet d’amore(カルテット ダモーレ)

◆聴衆賞 ロリエ弦楽四重奏団

◆ハイドン賞 Quartet ame(エイム弦楽四重奏団)
◆宗次賞 Sophia Quartet(ソフィア カルテット)

弦楽四重奏コンクール 次は再来年だそうだ
次も行こう! 

 

 



 

 

 

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ラインの黄金 (9月11日 愛知芸術劇場 コンサートホール)

2016年09月12日 07時39分57秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

最初は睡魔との戦いになるのかもしれない
と不安だったコンサート形式による「ラインの黄金」
しかし、そんなことはなかった
それどころか、終わったあとは人に何か伝えたくて
無闇矢鱈とツイッターに投稿したり、アンケートにいろいろ書き込んだり、、、
つまり、感動したということ

チケット代は3000円 
会場につくと厚めの解説パンフレットもついた

完全に元手は取った

そのコンサート(上演)が成功したかどうかは、もう一度行きたい(聴きたい)と
思わせるかどうかが判断の基準であるとしたら、今回は大成功
来年予定される「ワルキューレ」は絶対行こうと終わった瞬間に決めた

コンサート形式というものの、歌手は立ちっぱなしということはなく
証明も照度、色合いを変える演出がなされた
もちろん字幕も左右に準備された

雰囲気という面では、つかみは良かった
演奏が始まる前に舞台左手の上方で管楽器によるファンファーレが奏された
それはバイロイト祝祭劇場で幕間に奏されるモノを連想させて
一気に期待感がふくらんだ
(少し残念なのは音色、バランス、音程に不安を感じさせたこと) 

この楽団はアマチュアの人の集まりらしい
だからなめらかな肌合いの音、つややかな響き、安心できる流れはなかった
しかし、それで不満だったかといえば、全然そんなことはなくて
むしろ何かしらないが、熱い勢いみたいな感じられて、特に後半になるにつれて
音楽とドラマが一体化したような瞬間が何度となく感じられた

だから演奏の善し悪しと言うよりは劇の進行、内容に関心が行ったし
勝手な連想はヴァーグナーの考えたことに考えが及んだ

「ラインの黄金」は、よくよく考えると奇妙な作品だ
恋愛の話でもないから感情の昂ぶりみたいなものはないし
あるのは「嘘」とか「企み」とか「言い争い」とか
およそ美味しい話とはいえない
しかし、この物語の中で奏されるライトモチーフの雄弁なこと
字幕は確かに両サイドにある
物語を知るには字幕に頼るしかない
しかしその字幕は演じられるところから視線の動きを大きくしないと見られないので
どうも集中できない
だからパッと読んで視線は舞台にとなるのだが
この時威力を示すのがライトモチーフ 
気持ちとか雰囲気とか運命とか、その他諸々の表情を雄弁に語る
その面白いこと、、、

ヴァーグナーはこれ(ラインの黄金)を序夜として、あと3日続く
とんでもない物語のテキストを書き、作曲をした
彼は天才というより、化物という方がふさわしい

プロの視点から見ると、彼のテキストは欠点が多いらしい
でも自分はプロじゃないからそこまではわからない
確かに大げさだったり、もったいづけてるところも感じるけど
音楽の進行に必要ならそれもあり!と気楽に考えるくらい

指輪と言われるこのシリーズ
指輪といえば映画「ロード・オブ・ザ・リング」を思い出すが
アルベリヒがミーメをいじめて隠れ蓑などをつくらせるところの音楽は
映画の気味悪い連中が武器をつくっているシーンを彷彿とさせた

「ロード・オブ・ザ・リング」の作者トールキンは
ヴァーグナーの指輪に影響を受けたのだろうか

そんなこんなで、まだまだ思いつくことはいろいろある
歌手の方々がみんな日本人であったことは少し驚き
オドロオドロしい日本的な物語ではないが、何の違和感もなく世界に入っていけた
(むかし東京で見たパルジファルは、日本人が出た時は違和感を感じたが)

そうそう、一番残念だったのはクーラーが効き過ぎ
これは正直つらかった
吹き出し口の真下だったのか知らないが、ホント寒かった
この出来事は上演の記憶と一緒に残るエピソードで時間が経つと
良い思い出になるかもしれない(から、いいかとするか!) 

そうだ、会場では江川紹子さんを見かけた
最初、知ってる人がいる 誰だったっけ いちおう挨拶しとかねば
と思ったが、江川紹子さんと気づいて挨拶はやめた
こっちは知ってるけど、あちらはこんなおっさんは知らない
彼女は今年のバイロイトにも行ってるしワグネリアンということがよく分かった

ということで、おおいに満足のコンサートだった
来年はワルキューレ
その前に10月に東京でワルキューレ 楽しみ
 

 

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ショパン弾きではないかもしれない(?)丸山凪乃

2016年08月27日 18時15分47秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

土曜日の午後、宗次ホールのスイーツタイムコンサート並の価格で
自宅近くの新城市文化会館で生のピアノ演奏を楽しめたのが
写真の丸山凪乃ピアノリサイタル

この会場でクラシック音楽を聴くのは多分2度目(もしかしたら3回目)
JCの方が頑張って実現できた第九を歌う会の演奏会
それとモーツァルトのK219のヴァイオリンと新世界のプログラム
(少し怪しいのはラフマニノフの2番のピアノ協奏曲があったような、、、)

とにかく久しぶりのことだ
プログラムは

前半はショパンの作品
後半はシューマンとリストのロマン派の作曲家に、最近の人ファジル・サイの音楽

このピアニストのことは知らない
だが解説によると史上最年少でショパンコンクールにでたらしい
それで前半は、そのコンクールで演奏した作品を並べたようだ

演奏は、若いな
深みやニュアンスの微妙なところはない
バリバリと感情移入はそれほどなく弾ききっていく
もっと大づかみの解釈というか捉え方が必要かな
と思ったりした
ということで、有名な曲が並んだ割には印象には残らない演奏

しかし後半は、なかなか面白かった
自分でも自分の好きな曲と話しただけあって
共感の度合いが全然違う
この人ショパン・コンクールに再度挑戦するらしいが
ショパン弾きではないのでは!というのが実感
ショパンよりはもっと濃厚な感情の作曲家のほうがあっていそうな気がした

後半の最後の大曲 リストのソナタも面白かったが
今の彼女のフィーリングにピッタリと思われたのがファジル・サイのパガニーニ・ジャズ
例の24の奇想曲のひとつをジャズ風にあしらったもの
クラシックではなく今の気分をより的確に反映しているようで楽しかった 

サイモン・ラトルが古典となった音楽ばかりではなく
今の時代の今の気持ちを表現して、今の人しか共感を得られないような現代音楽を
無視してはいけないようなメッセージを発しているが
大げさなことを言わなくても、確かに今の音楽はもう少し門戸を
広げるべきかもしれない

そういえば数カ月前にいったエレーヌ・グリモーのリサイタルでも
現代曲はそれなりに面白かった 

帰り際、アンケートの回収があって、もっとこの手のコンサートの開催を希望したが
さて、、、、 

 

コメント (5)
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キム・ダミ ヴァイオリンリサイタル (宗次ホール)

2016年06月13日 08時25分55秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

コンサートに行くきっかけはプログラムか
それとも演奏家か?といえば自分の場合は
圧倒的にプログラムへの興味による

まずは演奏される曲が良いか、悪いかが 問題となって
いくら興味深い演奏家でも好みに合わないプログラムだと
それだけでパスしてしまう
(ゲルギエフは興味あっても苦手なチャイコフスキーでは
行く気になれない)

昨日、宗次ホールで行われたキム・ダミのヴァイオリンリサイタル

でかけたのは、このプログラム

2番目のヴィターリのシャコンヌが聴きたかったためだ

バッハと並ぶこのシャコンヌの名曲は、以前やはり宗次ホールで聴いた
この時は演奏者のヴィターリ愛にあふれ、感情のこもった演奏が
とても良かった

数カ月前からこのリサイタル(プログラム)は知っていて楽しみにしていた

ここからは完全に個人的な独断と感想
単なる思い込みに過ぎないかもしれないし、たまたま自分のコンディションに
よって不安定な感じ方だったかもしれないが
とりあえず何か残しておくことに

最初のヴィヴァルディ
その出だしの音でこの人の音の傾向・その日の方向性は
決まってしまうが、少し残念だったのが、その音は自分の好みの音ではなかった
楽器はストラディバリウスだそうだが何故かそんなにきれいな音とは思われなかった
特にフォルテというか大きな音量の時、もう少し吹っ切れたすっきりした音がでないものか
と感じて、実はこの時からヴィターリのシャコンヌの演奏にも少し不安がよぎった

ヴィヴァルディは職人的な音楽家で、内的欲求から作り出スタイプの作曲家ではないので
曲自体の必然性はあまり感じなかったが、ゆったりした楽章は四季の緩徐楽章を思い起こされて
この部分は心地よかった

さてお目当てのヴィターリのシャコンヌ
ピアノのゆっくりしたテーマの音形が奏されて
思い入れたっぷりのメロディーが奏されたが先ほど感じた不安を
吹っ切るものではなかった
何か空回りしている感じ(自分の中だけなのかもしれないが)

演奏は知らない曲の場合はその曲自体の訴えるものに集中できるが
聞き慣れている曲になるとつい比較という行為をしてしまう
ヴィターリのシャコンヌの比較対象はオイストラフ
この演奏が素晴らしい 濃厚な感情表現に富んでいてとてもドラマティック
他にYoutube でハイフェッツやサラ・チャンを聴いても
オイストラフを越える印象を持つことがない

こんな名演と比べることが可哀想なことだが、それでもライブだから
その時しか感じることの出来ない瞬間があるのではと期待したのだが
キム・ダミさんのこの曲に対する共感が本物ではないのでは!と思ったりする
いや、彼女はまだ若すぎるのかもしれない
この濃厚な感情の名曲はもう少しいろんな経験を積まないと
駄目なのかもしれない(と勝手に思い込んだ)

この曲に比べるとタルティーニの「悪魔のトリル」は良かった
音も無理なく鳴り始めて曲に感情が入っていく奏者の様子も見られた
(シャコンヌは感情の面が強すぎる曲なのかもしれない) 

後半のプログラムは概ね満足のいくものだった
ドビッシーのソナタは生で聴くのはラ・フォル・ジュルネの時以来
才気ばしったとっつきにくい曲だが、2回目のせいか
今回は結構面白く感じられた
(でも、やっぱり奇妙な曲の印象は残る) 

カルメン幻想曲は難しい聴き方をするより楽しむための曲
その意味ではリサイタルの最後を締めるには良い曲だ
なにか残るということはないが、その刹那は楽しむことができる

ということで、楽しみにしていたヴィターリについては少し残念だったが
こちらのコンディションもあるから仕方ないか
これが(お互い)一発勝負の生演奏というものか

ところで、席は指定となっていて前から4番目
本当はもう少し後ろのほうが良かったのかもしれない
演奏者と近すぎたために 生々しすぎた?

 

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エレーヌ・グリモー ピアノリサイタル

2016年05月14日 18時34分08秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

きれいな人だな

別に言い訳する必要はないのだけれど
今日名古屋芸術劇場コンサートホールに
出かけたのはエレーヌ・グリモーが美人だからではない
この人の指向性が面白いと思っていたから
機会があったら聴きたいと思っていた

指向性?なにそれ!
フランス人なのにフランス音楽でなくドイツ・オーストリー音楽に
共感を感じていること、それにオオカミと暮らしているという
ちょっと変人ぶりは興味をそそる
それにYoutubeでみると音楽に陶酔している姿が半端地じゃない
ということで、自分に言い訳して、お顔が見えない席で聴いた

でもリサイタル終演後にサイン会があってCD購入者と握手できるんだったら
間違いなくCDを購入していただろうな
どうも自分は国はドイツが好きなんだが女性はフランス人が好きみたい
ジュリエット・ビノシュもなんか好きだし、、、

プログラムはかなり変わったもの

最近発売のCDをメインとしているらしいが、演奏の曲順は変わっているとのお知らせがあった
曲順が変わっても変わらなくても、この中の曲は殆ど知らない
僅かにドビッシーの「沈める寺」を知っているくらい
(知らない曲ばかりでチケットを買ってしまうとは、やっぱり美人の力か)

入口で配られた曲の説明のパンフもあまり真剣に読まず
演奏を聞いて感じることを大事にしたい

前半の部
ベリオは現代の作曲家と記憶していたが
最初の2つの音は現代音楽というより、あれっ!と思うほど素直で聴きやすい
が、それでも時間が経つとやっぱり複雑な感情のこの時代の音楽を感じさせる
(おおらかな旋律もあったが)
曲を知らないので、続く楽章があるのかないのかわからない

休みがあるかなしで違う曲が始まった
低音の使い方が、日本っぽいと言う感じがしたから武満?
なにか船に揺れてる感じだから舟歌っぽい(フォーレ)
キラキラ水面を感じさせる曲だ(ラベル)
そういえば、グリモーさんのアルバムは「水」をコンセプトにしたもの
なにかロックのコンセプトアルバムみたいな感じ

この辺りになるとプログラムにどんな作曲家があるか頭になかった
でも、どこかラテンぽいぞ  きっとスペイン絡み?(アルベニス)
これまた水のたわむれを感じる  でもオクターブをいっぱいに使うから
リストっぽい (リスト)

これはわからなかった(ヤナーチェック)
やっぱり知っている曲は聴きやすい(ドビッシー) 
ドビッシーは独特の音色というか特徴がある

でもこれだけ知らない曲が続くと、不意にキース・ジャレットの
ソロライブを思い出した
何十年も前、やはり名古屋の千種でソロコンサートを聴いた時も
演奏されたのは知らない曲、
というよりその時初めて演奏される曲、
その時と同じように初めての曲を楽しむことにした

でも集中が続いたのはライブだから
CDだときっと無理かなという気持ちは拭い切れない

15分の休憩の後はブラームス
エレーヌ・グリモーさんはブラームスが好きなのかな
Youtubeでもブラームスのピアノ協奏曲を演奏しているのがアップされている
自分はブラームスはそれほど好きじゃない
(3Bはバッハ・ベートーヴェン・ブルックナーでブラームスじゃない)

まずは聴いてみようと耳をすませる
勝手な連想が浮かぶ
ブラームスはかわいそうだな
いろんな可能性は全部ベートーヴェンがやってしまった
あとに残された彼は何をすれば良いのか、、、

なにか男らしい迫力のある音形と音響が続くが
なぜかブラームスはあまり男っぽくないな
モーツァルト・ベートーヴェンは男っぽい
でもその風貌と音形の割にブラームスは弱々しいところがありそうな、、
何の根拠もない勝手な連想、、

プログラム終了
グリモーさんは丁寧にお辞儀をする
それはゆっくりと柔らかく、まるで柔軟体操のよう
残念ながら(本当に残念ながら)お顔をよく見れなかったが
あのお辞儀が心打って、拍手をちょっと力を込めてした

アンコールはあった
あるとしたら何かなと考えたが
勝手に連想するより聞けば分かること
最初は、、、ピアニスティック  しかも幅広い音程
ラフマニノフかな  が第一感
もう一曲も同じ印象
次は、ひらめきのないもやもやした、
しかし男っぽく表現しようとしているからブラームスかな

最後は、妙にピアノが鳴るというか音が出やすくキラキラしてるから
多分ショパン

そんな風に予想したが、帰りのアンコールの曲名がかかれたものを見て
 

 大当たり!
なんか嬉しかった
昔はNHKFMで演奏途中から聞いた音楽の演奏者・年齢・国籍を
想像して後で答え合わせをするのが楽しみだったが
その時のことを思い出した

で、帰る時、CDは買わなかった
サイン会がないためじゃなく、最近はCDの音が
なぜかきつく感じられて仕方ないので 、、、

 

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ヴァイオリン聴き比べ(宗次ホール)

2016年03月27日 09時09分49秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

最近お気に入りの宗次ホールに出かけた
昨日のプログラムは

3人の演奏者による3つのヴァイオリンの聴き比べができるというもの
(本当はそんな低次元でのプログラムの意図ではなかったかもしれないが)

昨日は3つどころか急に一人追加で、結局4つのヴァイオリンの聴き比べができた 
(急遽参加していただいたのはグァルネリ・デル・ジュス【1741製】で
 ラヴェルのツィガーヌを演奏したアンドレア・オビソ氏)

正月のテレビ番組で、何億というヴァイオリンと普通の価格帯のヴァイオリンの
演奏を続けて聞いて 、どちらが高い方のヴァイオリンか?を選んで耳の良さを
競うものがあったが、今回は正直なところこのくらいの軽い気持ちででかけた

で感想は?
ヴァイオリンの音の違いは、演奏者が違う、曲も違うし
素人の耳で正確にあれこれ批評することはできないが
最初に演奏された ツィガーヌを演奏したアンドレア・オビソは
馬力のある音と言った感じ
最初は比較できないので、まずはこの音を基本にして比較

予定通りのプログラムに戻ってイ・ユジンさんのG.F.プレッセンダ【1697年製】
これは先程の音と違って随分華やかな音 やんちゃな音
曲想がそう感じさせるのか楽器がそうなのか、素人には分からないが
とにかくそんな印象 
曲はバルトークなど、でもバルトークはどうも相性が悪い

2番めは松岡井菜さんのM.ベルゴンツィ【1764年製】で 
ストラヴィンスキーとサン=サーンス
これは先程の音より品が良い もっと上質の感じの音
でも一番印象に残ったのはこの演奏者の集中、音楽に没入しているところ
その表情やら演奏風景でこちらもついのせられてしまった感じ
バルトークよりストラヴィンスキーのほうがまだ自分には合いそう

最後のフランシスコ・ガルシア・フラナさん
楽器は(ついに出た)ストラディバリウス「レインヴィル」【1697年製】
偉そうに楽器の名前を上げているが知っているのは(耳にしたことがあるのは)
ストラディバリウスとかすかにグァルネリくらいなもの
こうした事前の情報量が聞く方にも影響したかどうかは定かではないが
このヴァイオリンは先程の音と比べて更に上品さが増した感じ
つい日本酒の比較を思い出した
純米・吟醸・大吟醸
良いお酒はべとつかずスッと品よく鼻に抜ける感じ
僅かな違いだが、この差は限りなく大きいと感じことがあるが
このヴァイオリンの比較もそんな感じ
音楽ではなく音自体を聴きたいなら3番めのストラディバリウスを聴きたいかな
この上品さは艶っぽい
曲はモーツァルトとリヒャルト・シュトラウスのソナタ
モーツアルトはK301とかK304のほうが聴きたかったな
リヒャルト・シュトラウスの方はどうもすっきりしない
(この人の曲を聴くといつもそう思う)

ということで、とい経験をさせてもらった
ところで会場でパンフレットをもらったが
触手が動いたのはキム・ダミのヴァイオリンリサイタル
プログラムにヴィターリの「シャコンヌ」がある
それだけじゃなくプログラムの写真が美人ぽい

お顔が見えるわけじゃないが
5月のグリモーの演奏会といい、美人には弱い、、、 

 

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バレンボイムのブルックナー1番

2016年02月05日 08時37分46秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

昨日は、みんなが寒い中頑張っているので
少し心苦しいかったが、ずっと前から計画していたお楽しみ
バレンボイムとシュタッツカペレ・ベルリンのコンサートにでかけた

プログラムはモーツァルトの最後のピアノ協奏曲27番
それにブルックナーの交響曲1番
会場は愛知県芸術劇場コンサートホール
 

ブルックナーは大好きな作曲家の一人で
昨年は晩年を過ごしたウィーンのベルデヴェーレ宮殿や
その前にはリンツの聖フローリアン修道院にでかけたりして
全く「オタク」の部類

現実のブルックナーの演奏は
マーラー・ブルックナーとセットにされて
ブームになった時でさえ4番が多く演奏されたくらいで
8番が時々、初期の方はほとんど相手にされない

でもこの初期の、1番、2番が実は自分は大好き
どうして好きか?を答えるのは難しい
なんか、好き
そうしか答えられない

聴いたことのない人には1番は大音量で鳴りっぱなし
それも無意味に、、、と思うかもしれない
しかし、好きな立場で聴くと、この鳴らしっぱなしの音が
オルガンを目一杯鳴らして楽しんでいるみたいで
とても心地よい
この大音量の感じはロシアの例えばチャイコフスキーのとは全然違う
ブルックナーはなんか音に汚れがない
だから疲れない

バレンボイムの指揮はこれで3回目
最初はパリ管でドビュッシーの海だったか夜想曲
このアンコールが良かった
グルックの精霊の踊りが演奏されたが、
酔っ払っていい気分になっている聴衆を
また酔わせる感じでうっとり、
時間の経過を忘れさせるような瞬間を今でも覚えている

2回目はシカゴ交響楽団とのブラームスの2番
これは大いに外れ
損した!という感じ

そして今回
最初のモーツァルトは小さな編成でサラッとなるのか
とおもいきや、北のドイツらしく真面目な演奏
冒頭の弦と管の絡みはもうすこし管にニュアンスが欲しかった
(なんて偉そうなことを)
そして一楽章の中間部、短調でぐさりと驚かされるところ
これももうすこしやりようなあったのでは!
つまり、ちょっと残念な演奏だった
これがウィーンのオケだったら、
もうすこし気の利いた演奏をしたのではと思ったりする

しかしモーツァルトは聞き流すと、どうってことにない音楽だが
しっかり耳をすますと、なんと多くの感情やらニュアンスが
込められているのかと つくづく思ったりする

さてお目当てのブルックナー
何故か指揮台が舞台の端ギリギリまで移動されている
落ちてしまわないかと心配するほど
オーケストラの配置は扇型ではなく
ティンパニを山の頂上とした富士山みたいな形
それに左肩にコントラバスが配置されて
ちょっと見たことのない陣形
この配置から出てくる音はブレンドされたというより
塊 として出てくるのか
そこはプロではないのでわからない
ただ何かしらの目的、効果があって行われていることだろう

1楽章の冒頭 マーラーの6番を予感するような刻みの音形から
音楽が始まる
この時の弦と管の掛け合いは管が音量を抑えてとても雰囲気がある
これで一気に曲に集中できた

この曲、やんちゃな若いブルックナーの音楽
イケイケで音を鳴らしっぱなしのところがある
ところで、ブルックナーの演奏はテンポを変えないで
演奏するほうが良いみたいな話をよく聞くが
この一番を聞いていてクライマックスにいたるところなんかは
徐々にスピードを上げていったほうが自然、
音形もそれを要求しているような気がした 
フルトヴェングラーが演奏したらきっと煽っただろうななどと連想

2楽章 ゆっくりした音楽はブルックナーの真骨頂
美しいというのは感傷的というのとは違う
もっと体全体を音楽に委ねて法悦に達するような
(この最たるものは8番の3楽章)
とてもうっとり

3楽章 若いブルックナー  ブレーキのないイケイケのブルックナー
誰にでも若い時はあったのだ
と当たり前のことを感じる
これはロックの世界のノリに通じる

そのままの勢いで4楽章のフィナーレに
ベートーヴェンの7番も3楽章から4楽章まで一気加勢だが
この曲も似た感じ
イケイケが拍車をかける
でも初めてこの曲を聴く人は、
訳わからずに音がなっていると感じるかもいしれない 
何度も聴いて楽しむコツを知っている自分らは問題ないが
一般的には聴きにくい音楽の範疇に入るのかもしれない

結局、ブルックナーは愛する神様にいたるところで
「神様バンザイ!」とやりたかったのではないか
とにかく肯定的な結論や音楽を表現したかったのではないか
そんな思いが頭をよぎる

演奏が終わって、それははっきりと終わりというのが分かる終わり方だが
いつもなら起こるブラボーの声が起きない
終わったあと、静寂、誰もが声を上げるタイミングを失ったかのよう
それは圧倒されたのか、それとも聴いたことのない曲で戸惑ったせいなのか
1.2秒の沈黙
そしてパラパラと音がしだすと、徐々に大きな拍手に
自分は本当に楽しめたけど、他の人はどんな印象を持ったのだろう
変な曲?

ところでブルックナーの演奏会には女性が少ないというのが定説のようだが
昨日は意外に多かった
隣の女性に「メインがブルックナーですが、女性は珍しいですね」と声をかけると
お目当てはモーツァルトのピアノ協奏曲の方との答え
なるほど、そうでしょうね

ということで、大いに楽しんだ
(チケット代の元を取らねばもったいない) 
本当は2番も聴きたい5番も
誰か名古屋でやってくれないかな

あとシモーネ・ヤングの演奏で8番の初稿での演奏
やってくれないかな
絶対行くのに! 

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伊藤恵 ピアノコンサート(宗次ホール)

2015年12月15日 08時53分40秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

昨日(12月14日)は久しぶりの宗次ホール
プログラムは

伊藤恵さんは以前NHKFMの「おしゃべりクラシック」だったか「気ままにクラシック」だったかに
出ておられて、その話しぶりがとてもおおらかで「いい人だな!」と感じられ
いつか機会があったら聴きたいものだと思っていたところ
たまたま今回このプログラムを見つけたものだから足を運ぶことにした
彼女のお気にい入りのシューマンはやっぱり入っている

演奏自体を比較・批評できるほどたくさんのピアニストを聴いているわけでもないので
いつものように聴いてて連想したことなどを思いつくままに
(この連想することが結構楽しい)

最初のベートーヴェンの一番最初のピアノ・ソナタ
音階的な主題はベートーヴェンらしい、同じ一番のピアノソナタでもモーツァルトのそれとは
随分違う(当たり前だが)
初期と言ってもガッチリしているというか、全曲のバランスというか、トータルな視野で作られている感じ
演奏はライブの良さで途中からノッてきたようで、ピアノの音も心なしかよく鳴る感じになった
そこで連想したのが、一番のソナタで始まるなら途中中期のソナタを入れて、最後のソナタで締める
プログラムはというのはどうかな
中期は熱情だと完結してしまいそうな印象が強いので、ワルトシュタインくらいで

そんなことを思っていたら全演奏が終わったあと伊藤恵さんが
今回のプログラムはベートーヴェンの最初のピアノ・ソナタ
シューベルトの最後のピアノソナタ
間に夢見るロマン派のシューマンを入れてみたとの挨拶
なんのことはない、似たような発想で組まれたプログラムだった

ベートーヴェンの後だとシューマンのピアノ曲は音が柔らかい
というか、輪郭がはっきりしないというか、夢の中で浮かんだイメージをもやもやと
音にしている感じ
このもやもや感が好きな人は好きなんだろうな

シューベルトの21番のピアノ・ソナタ
これはアリシア・デ・ラローチャの演奏で名古屋で聴いたことがある
いまでもよく覚えているのが第2楽章の部分
本当に夢のなかにいるような時間
沈潜し陶酔するような時間
これが聴きどころと思っていたが、昨日もやはりそうだった
演奏中、心なしかうなり声が聴こえた気がした
演奏している伊藤恵さんが気持ちがノッて、つい歌ってしまったのかもしれない
グレン・グールドやキースジャレットも声を出すけど
昨日は邪魔にはならなかった(声なんて出していない?もしかしたら幻聴?)
この辺りは集中しきっている

でもこの別世界のような音楽 ベートーヴェンの32番の第2楽章も
別世界のような音楽だが、その印象はだいぶ違う
シューベルトは響き、音の中に惑溺しているがベートーヴェンは
そんな中にもまだ客観的に自分を、音楽を眺めている存在を感じる
それがためにベートーヴェンは最終的には全体のバランスを崩さない
構成的な音楽になっているのかもしれない

それとシューベルトは音楽の旋律が長いが
ベートーヴェンは動機というかモチーフというか短い音形
それを変形していくのでより自由度が高いのかなと思ったりする
でも音楽家でもないし、ただ好きで聴いているだけなので
勝手な思い込みかも知れない 

で、最後の伊藤恵さんの挨拶
やっぱりいい人
そんな感じだった

また機会があったら聴きに行こう 




 

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