パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「冬の旅」

2017年11月12日 08時24分35秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

先日、生ゴミを出しに指定場所に出かけた時、二羽のからすを見かけた
その刹那、シューベルトの「冬の旅」の中の「からす」の一節が頭に浮かんだ

Eine Krähe war mit mir
Aus der Stadt gezogen
Ist bis heute für und für
Um mein Haupt geflogen

比較的覚えやすいドイツ語で、この部分だけは覚えている(ここしか覚えていない)
そしてメロディも歌いやすい
その日の夜には「冬の旅」のレコードを聴こうとその時に決めていた 

夜に棚から引っ張り出してきたのが

ハンス・ホッターの歌ったものだ

実は「冬の旅」はそんなに聴く気になれない曲だ
シューベルトはあまり好きじゃないとか、作品が好みでないとか、出来が悪いとか、歌手に問題があるとか、、
そういったものではなくて、聴かない理由は「落ち込む」からだ

音楽を聴いて落ち込む
そういったことはあるもので、何十年も前にこのハンス・ホッターの歌う「冬の旅」の全曲を
聴き終えた時は、ひたすら疲れた記憶がある
ハンス・ホッターの歌はモノトーンの音色で、何か気の利いた演出があるわけでもない
ただ淡々とあの深い声で歌うだけ、ただそれだけ
しかし、その淡々と当たり前に歌われる歌が終わりの方になるに連れ「孤独」というものが
一種の狂気じみたものとさえ感じられ、救いのないような気分させられた
この記憶があるために安易に聴こうという気にはなれないでいた

全曲のなかには長調で書かれたホッとするような曲もある(菩提樹・春の夢)
でも直ぐに短調に傾き、この2つの対比がハンス・ホッターの歌では
明瞭でないため(フィッシャー=ディースカウは音色変化がもっとある)
どうしても基本となる暗さの印象が強く残る

曲を通して聴いた絶望感
音楽体験が楽しいものばかりではないことを実感したわけだ
それでレコードジャケットを見るたびに、あの「絶望感」が頭をよぎり
どうしても避け気味になっていた

ようやく聴く気になったハンス・ホッターの「冬の旅」
いざ聴いてみると、今度は少し違った印象をもった
以前より人生経験を積んだせいもあるだろうが、この孤独感にも耐えられるような気がしたのだ
これも耐えなければならない試練の一つ、、、みたいな
今は少しばかり客観的に見られる(聴けれる)ようになっていた
こうして比較すると若い時の落ち込むほどの聴き方・感じ方というのは
ある意味たいしたものだと少し呆れてしまう
その時は全身全霊で何かを感じていた

しかし、そのように全身全霊で何かを感じることは時間とともになくなっていく
感じることのかわりに、考える事から得られるものが優先的になっていく
そしてそれが当たり前になっていき、それが知恵といわれるようになっていく

若い時の(もしかしたら今で言うVRに近い)聴くことによって得られた体験は
単なる聴いたという経験では収まらない事になっている(少なくとも自分の中では)
この「冬の旅」以外にも、カール・リヒターの指揮する「マタイ受難曲」の中で
キリストが息絶える場面には、まるで自分が刑場にいたような錯覚を覚えて
口の中も、喉がからからになった
おそるべき思い込みとか想像力、いまならそこまでいくことはないので多少の羨望感をもって
過去を振り返ってしまう

今になって「冬の旅」はようやく普通に聴けるようになっているかもしれない
でも、昔感じた「絶望に近い孤独感」の記憶は消えることはない(だろう)
何度も聴く気にはなれなくてもこのハンス・ホッターの「冬の旅」はやはり凄い
今度聴く気になるのはいつのことだろう
(もうそんなことはないかもしれない、、でも、それでも十分だと思っている)

 

 

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新国立劇場の「神々の黄昏」

2017年10月06日 08時21分30秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

「ラインの黄金」から一年後の去年の秋は「ワルキューレ」
そのまた一年後の今年の夏は「ジークフリート」
そして、その数ヶ月あとの「神々の黄昏」
飯守泰次郎さんが進める「ニーベルングの指環」のプロジェクトは自分の中では
この秋の10月4日で終わった

待ち遠しかったこの日
でもスタートがいつもの14時からではなく16時から

おまけにとてつもなく長い
これでは田舎からのお上りさんは、東京に宿泊するしか手はない
翌日は地元で用事ができたので、ホテルで寝るだけで直ぐに帰ることになった

それにしても、長い!
特に第一幕、2時間ほど延々と続く、そのため心配したとおりお尻が痛くなってきた
だが隣の人もいるので自分勝手にゴソゴソできず、正直なところ後半は少しきつかった
音楽は相変わらず雄弁、物語の背景を3人の運命のノルンが話す
人はここで大枠のストーリーを再確認することになるが、スッキリ明確にいかないで
何度も行ったり来たりするところがヴァーグナーらしい
2時間もの音楽と台本を書ききったヴァーグナーの精神のスタミナ(しつこさ)は、
日本人には少し驚きを覚える(やっぱり彼は怪物だ)

一応レコードで予習しようとしたが全部まではいかず、結局本番を楽しむことにしたが
一幕はだいたいストーリーは分かっていた
音楽自体は歌手陣が誰で、どのくらいのクラスの人か情報に疎いので偉そうに言えないが
フト感じたことを言えば、ブリュンヒルデが最初に声を出した瞬間、それまで声を出していた人たちとは
何かが違う(透明度とか訓練の度合いとか)と根拠のない印象をもった

この「神々の黄昏」のヒロインであるブリュンヒルデに対する共感、感情移入は
第2幕はもっとハッキリしたものになる
それはこの役を演じたペトラ・ラングの性格描写の凄さかもしれない
ここで見られるジークフリートとの夫婦喧嘩みたいなものは、一般家庭でもよくありそうな
というか、世間にいそうな女性の怒りみたいで、すごくリアリティがあった
おまけにノートゥングを突き立てて、横で眠るブリュンヒルデには手を出さなかった
というグンターに化けたジークフリート(記憶を失っている)は、最近不倫騒動で
「一線は超えていません」とか「男女の関係はありません」といったスキャンダラスな芸能ネタを
連想させられて、いつの時代も、どこでも似たような事件とモラルに対する要求(貞節)があるものだ
と変なことに納得した

「神々の黄昏」は演奏、パフォーマンスの良し悪しを批評・比較できるほど聴いていないので
実演では音楽を聴いているのか、筋を追っているのかわからないところだが
第3幕でラインの乙女たちが出てきたのは、このニーベルングの指環の一番最初のシーンを
回想させられて、しかも、回想することによって物語の統一感がしっかり出て、
そして物語の主役は「権力をもたらす呪いをかけられた指環」であることがわかった
そして物語の一番最初に登場したもう1人の人物アルベリヒも、今回の演出では最後に
ヨボヨボと登場し、これまた物語に余韻を与えた
(このアルベリヒは結局、どんなことになったか、、自分はよくわからなかったが)

こうした楽劇とかオペラは声が良い、声量があるだけでなく演ずる役の性格を想像させる様な
ニュアンス(演技と歌い方)が必要だが、策士ハーゲン役に佇まいや声の質、
勢いだけで屈託のないジークフリート役の若々しい様は、それぞれの歌い手さんがその道では
評価を受けているのは納得できるものだった
(ハーゲンはアルベルト・ペーゼンドルファー ジークフリートはステファン・グールド)

さてオーケストラの演奏は、、、
特に気になることはなかったから可もなく不可もないというところかもしれないが
大音量だな、、と変な記憶だけが残った
盛り上げるには大音量だが、ちょっと必然性のある流れとかニュアンスとは違うような
(と言ってどこがどうのとはよく分からなくて、ただそう思っただけなのだが)
もう少し踏み込んだ演奏はやりようがあるような気がしたが、それは西欧人と日本人の
元々持っている違いによるものかもしれない

最近「ニーベルングの指環」は日本で多く上演されるようになっているらしい
この物語の権力求めての策略や、それを求めることがもたらす運命、そしてその犠牲者等は
現在の政治の世界のドタバタをまるで暗示するかのようだ
だからこそ、読み直しの演出が幾種類も出てくるのだろう
しかしプロトタイプの神話的要素の「ニーベルングの指環」の方が
想像力を刺激して、面白そう、、、(だが、もう生で指環を見ること聴くことはない、、かな)
 

 

 

 

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「京都 冷泉家 七夕の雅宴」から連想することなど

2017年07月09日 08時47分48秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

里芋の葉っぱに溜まったつゆを集めて墨をすり
その墨で短冊に願い事を書いて笹の葉に飾る

こんなのんびりしたことを、そのまま実際に行ったかどうかどうかは
覚えていないが、短冊に勝手な願い事を書いて真似事をしたことはある(保育園とか家で)

七夕は、子どもたちにとって愉しい行事の一つなのかもしれない
いや親にとっても微笑ましい思い出に残るイベントに違いない
下手くそな字で屈託のない、とんでもない願い事を見るだけで
どこか幸せな瞬間を感じることができる
このような時間は、その行事がどのような目的で行われるようになったか
本来の目的以上の役割を果たしているんかもしれない 

今年の7月7日金曜日 珍しい七夕の行事を見に行った
ところは名古屋市の芸術劇場コンサートホール
行われたのは

京都御所の北に住まいを構える冷泉家の七夕の行事だ
冷泉家は「小倉百人一首」を選んだ藤原定家の孫の藤原為相に始まる「和歌の家」
数年前、一般公開された時に立ち寄った事があるが、
その家のしつらいのこだわりや品のいい事、そしてお蔵にはとても需要な文化財が
保存されていることなど、この家の関係者から話を聞いてぼんやりと覚えている

京都はいつ行っても興味は尽きないが、最近の自分の関心の方向は「侘び寂び」よりも雅の方
どうしても真似出来ないような、京都にしか存在しないような
ちょっとした気の利いた美的ポイントとかこだわり
それはきっとお公家さんたちのセンスから来ているものだと勝手に思い込んでいて
今回も、その公家さんたちの行事はどんなものか、、の興味から足を運んだ

プログラムは、蹴鞠、雅楽演奏、和歌披講、流れの座の大きく4つに分かれている

これらの一つ一つを解説できるほどの力量や知識はないので 
いつものように現場で、空想や想像が羽ばたいたこと思いついたことなどを
そこはかとなく書き綴れば、、、

蹴鞠
何よりも印象に残っているのは、登場した人たちの衣装のきれいだったこと
濃い色ではなく、今で言うならパステルカラーに近い色
その一つ一つが品があって、照明にあたって本当にきれいだった
蹴鞠は数人で行うサッカーのリフティングのようなもの
あの衣装と靴では、やりにくいだろうな、と思いつつ
昔の人もやり始めると夢中になってしまいそうなこの行事
ハマって練習をする人たちがあの時代にもいただろうな、、、などと思ったりした
会場は狭く演技者には少し可愛そうな環境だったが
慣れるに従って少しづつ空気のない鞠は地上に落ちずに
ポンポンと掛け声にのって宙を舞った

雅楽
お祭りには録音されたものを聴くことがあるが生は初めて
11人で奏される音楽は、音を出しっぱなしというかリズムがない
旋律すらも感じ取れない
笙とか篳篥、太鼓、琵琶、琴が西洋音楽とは明らかに違う決まりで
時間の経過を表現する
(フト、モーツァルトの生き生きしたリズムと言うのは、
 なんと表現力豊かなのだろうと思ったりした)
短い最初の曲、なぜだか知らないが雅楽という割には
この音楽は遠いペルシャに近いものを感じた
それは音色なのか、あるかないかわからないメロディーのせいかわからないが
根拠なくきっとそうに違いないと確信した(単なる思い込みだろうが)
次いで長い曲が奏された
音楽はなりっぱなしのリズムはないのはずっと同じだが
今度は少しばかり聴きやすい
琴が印象的な分散和音のようなフレーズを、遠慮気味に時々奏する
最初は小さな音で、それから徐々に大きく存在感を持って
そのゆっくりゆっくり進むさまの効果は音楽的で
まるでボレロの様な感じ (音楽的効果については洋の東西を問わず似ているってことか)

和歌披講
8人の人が左右に分かれて座る
テーマに沿って歌われた和歌をゆっくりと音読する
いや音読というより歌う
マイク無しでゆっくりと、まず1人が上の句を歌うように音読する
その旋律はその人の独自のメロディなのか決まりがあるのだろか
ついで 他の人も声を合わせて下の句の一部(?)を歌う
それは単なる斉唱かメロディーが存在するのか、よくわからない
ただ即興で合わせるということも難しそうなので、何らかのきまりはあるのだろうか
と素人は心配してしまう
和歌は本で読んだりすると単に57577の歌に過ぎず、その歌の意味をあれこれ想像するが
こうして音として表現されると、意味以外のなにか(リズムとか流れの良さとか)が
重要なのかもしれないと感じる
それにしても、のんびり歌い、それを楽しむ事のできる事のできる気持ちは
ちょいと羨ましいかもしれない

流れの座
和歌は、のんびりしているだけではどうやら収まらないらしい
和歌披講についで行われたのは、即興で和歌を作ること
七夕の行事なので左右4人づつに別れた舞台の中央に
天の川を連想させる縦に長い敷物が準備された
それぞれの「うたいびと」は与えられたテーマにそって
これまた優雅に墨をすって、短冊に和歌を書き、それを扇子に載せて
対面に座る「うたいびと」に手渡す
受け取った「うたいびと」はその歌の返しを即興で行う
これも全体的には音のない静かななかで行われる
七夕の行事とはいえそれは本来は旧暦の行事
この静かな行事を想像力頼もしく秋の虫が鳴き始めて、
月も三日月で、暑いとは言え時に涼しい風が吹く様子を連想しながら
この舞台を見ると、その趣は一気にこの行事の趣味の良さを実感する

全ては静かなうちに行われる
音のない音楽のなかで、聴こえるのは虫の声、風の音、文字を書く音、衣擦れの音、
昔の人達は、こうしたことを「趣のあるもの」として大事にした
その判断と感性は、もしかしたら今の時代こそ大事にすべきかもしれない

歌の即興はとても難しそうなので、お公家さんは歌の勉強を常々する必要があったのだろう
だからこそ「歌の家」の冷泉家のような存在が必要だったに違いない
この歌のやり取りだが、ある面人物評価のチェックポイント人もなるのではないだろうか
まずは歌の視点、詩的空間(時間)の存在の認識とその表現技術、過去の歌への理解
(なんだか夏井いつきさんの言い分に似てきたぞ)
それらはいわゆる教養としての分野のことがらでお公家さんには必要とされ
これらが上手くできないと無粋な人(それから連想されることとして)判断を間違えやすい人
との烙印を押されてしまうのではないか
物事を判断するのに損得だけでなく、美しいいかどうかといった審美眼が必要とする考え方は
今こそ、判断基準にしてほしい、と思うのはないものねだりだろうか

ということで、あの現場で勝手気ままに思い浮かんだことはこんなこと

それにしても、衣装はきれいだったな、、
一番印象に残ったことは実はこれだったかもしれない
(だから葵祭を見に行きたいと思うのだろうか) 


 

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ブルックナー交響曲第3番(名古屋ブルックナー管弦楽団コンサート)

2017年06月19日 08時32分37秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

何年ぶりだろう
おそらく10年は超えている
むかしはオーケストラのコンサートと言えばここばかりだった
ショルティのウィーンフィルも、シノーポリのニューフィルも
確かここで聴いた

先日の名古屋での演奏会形式によるワルキューレの際に
とても魅力的な印刷物を手渡された

まず目を引くのがプログラムでブルックナーの交響曲3番(第3稿)となっている
詳しく見るとオーケストラの名前が、名古屋ブルックナー管弦楽団
ブルックナー好きの自分とすれば、これだけでチケットお買上げというところ
そして会場が、懐かしい以前の名で言えば金山市民会館 (現在は日本特殊等業市民会館フォレストホール)

会場は自由席、料金は1000円
リーズナブルな価格なので、今まで経験したことのないような良い席を確保した

メインのプログラムが女性には好かれないと思われるブルックナーだったし
マニアしか受けない3番だったが意外や意外、女性の数は多かった
(このオーケストラの関係する方々が来てたのか、、、) 

この日のプログラムは

今まで聞いたことのないベートーヴェンの劇音楽「シュテファン王」Op.117 序曲
次にブラームスのドッペルコンチェルト
そしてメインのブルックナー交響曲3番

ベートーヴェンは作品番号が後ろの方だからどんな曲かな?
と思いながら耳を傾ける
冒頭は「彼の音楽らしい」スタート、だが直ぐに木管の親しみやすいメロディーが続き
全体的に作曲技術が確保されて職人さんの作品といったところ
前座の曲としてアイスブレイクは上手くいった

ブラームス、、、
この曲はCDで聴いたことがあるはずなのだが、記憶にない
(聴いたことがあるようなフレーズがあったので)
第一楽章のちょっと大げさな主題
だがモゴモゴ・ウジウジと進められていくような音楽の印象
テーマが勇ましい割には何故かそんな風に感じてしまう曲だ
結局、最後まで楽しめず  少しつらい時間
ブラームスは4番の交響曲やクラリネット5重奏曲はいいけど
あとはどうも相性が良くない
(バイオリン協奏曲もなかなか通して聴けないでいる)

でもこの日のお楽しみは生で聴いたことのない3番
眠気を振り切って気合を入れて音楽に向かう
弦が細く刻みブルックナーらしいスタート
冒頭のトランペットは緊張するだろうな、、
でも、やりがいがあるというか目立って嬉しい、、、
そんなことを思いながら聴く

音楽は自然に流れるというよりはブツブツと途切れて
話があちこちに飛んでしまっているような装い
大音量のあとの静かな応答のフレーズ
なるほどオルガン的発想とはこういうことをいうのかもしれない
だが、この大音量の心地よいこと
難しい感情を込めたり流れの必然性というのではなく
単に大きな音を出すという生理的な心地よさ
ブルックナーの音楽を聴く時は、特に生で聴く時は、そのように感じることが多い

この初めて聴くだけでは何処にいくかわからない音楽
このスコア献呈されることになったリヒャルト・ヴァーグナーは
(2番と3番のどちらが良いか聞かれた)
すぐさまブルックナーの才能を感じ取ったのだろうか
そうだとしたら、仲間内の擁護はあるかもしれないが、やはり素人との捉え方は違う

アダージョの作曲家と言われるブルックナー
第二楽章は初稿ではかなりいろんなことをやっているが
この日の3稿では初稿の無鉄砲さはなくまとまっている
曲のはじめの大きな旋律を聴いた刹那、4年前リンツから聖フローリアン修道院に
向かったバスの車窓から見た穏やかな風景・自然を思い浮かべた
そこはブルックナーがいつも見たであろう風景だ
このオーケストラの人々もあの風景を見たら、一度経験したら
きっと違う音楽を演奏したに違いない
そういう機会があればいいのに、、などと思い浮かべた

自分は大いに楽しんでいたが、やはり何処に向かうかわけの分からない音楽
途中で逃げ出した方々もチラホラ見かけた(仕方ない、慣れないとキツイだろうから)
実際のところ、この曲は生でないと通して聴けない
CDやレコードでは楽章ごとに聴くしか出来ていない

オーケストラはプロではないので音色に潤いとか、細かなニュアンスなどは
望むことは出来ないが、それにも勝る熱気とか音楽に対する愛情みたいなものは感じた
だから最後の最後に、あの第一楽章のトランペットの主題が回帰された時は
わかっていても感動した
それはブルックナーがこうしたかったということと、
奏者も目一杯やったという充実感・幸福感をこちらも 感じさせてもらったということだ

会場では近場・近日に行われるコンサートのチラシが手渡されるが
次は何にしようか、、
7月7日に芸術劇場コンサートホールで行われる冷泉家絡みのけったいな行事も面白そうだが、、

 


 

 

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名古屋で「ワルキューレ」

2017年06月12日 19時54分39秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

6月7日(水)は東京新国立劇場で「ジークフリート」
日曜日の6月11日は名古屋芸術劇場で「ワルキューレ」
順番は入れ替わっているが、長い長い「ニーベルングの指環」の音楽を堪能した

名古屋の「ワルキューレ」は演奏会形式で、歌手が突っ立って歌うだけでなく
若干の動きや照明の変化など、退屈にならないように気遣いがなされていた
しかし、長い

座りっぱなしでお尻が痛くなるかと心配したが、なんとか切り抜けられた

この演奏会形式のニーベルングの指環は昨年の「ラインの黄金」が
とても楽しかったので、楽しみにしていた
長大なプロジェクトを実行しているのは愛知祝祭管弦楽団という素人の方たち
でも昨年はそんなことは気にならずにしっかり楽しめた(チケットも安かったし)

今年は数日前にプロのオケ、及び世界的な歌手の演奏(ジークフリート)を聞いた直後だったから
その記憶が残っていて、ついつい比較するところがあって、この「ワルキューレ」は
少しばかり損な役割だったかもしれない

国立のジークフリートの歌手たちの圧倒的な声、音量・音質・ニュアンス・余裕が
日本人の体格では少し追いつかないかな、、と感じられた、、、
でも楽しめなかったということはなくて、ただそんな風に思っただけのこと
(個人的にはジークリンデの人が良かったな) 

特に印象に残ったのは第3幕
夫婦喧嘩のシーンが長く、説明も多く持て余し気味の第二幕の鬱憤が
一気に開放されたように、冒頭のあの有名な「ワルキューレの騎行」から
音楽は急に熱気を帯びてきた
そこからは一気呵成という感じ
音全体が美しいとかバランスが良かった良かったとか言うのではない
そんなことは気にならなかった
ただただ、物語の世界を楽しむことができた

だが、途中変なことを考えた
自分はこの人気の「ワルキューレ」という出し物よりも
地味な「ラインの黄金」のほうが好きかもしれない、、、と
「ラインの黄金」は劇中に聴き応えの歌があるわけではない
でもライトモチーフ(示導動機)の活用が他の作品群より徹底されていて
音楽が暗示する、あるいは説明する部分が雄弁で、、
おまけに巨人とヴォータンが言い争っている時、
急に登場するエルダのシーンの効果的で美しいこと、、 

しかし「ワルキューレ」も美しいシーンが有った
ジークリンデがジークムントの子を宿していると知らされ
たった一度だけ奏される「救済の動機(喜びの動機)」が登場した時は
その効果的な美しさに思わずぐっと来た
有名なヴォータンの愛する娘との別れの歌よりも個人的には
このたった数秒間の音楽が印象に残っている
(この動機は「神々の黄昏」でも最後の最後に登場する)

それからライトモチーフではジークフリートのそれがかっこいい
恐れを知らずに火の囲いを乗り越えて来るのは(次の物語の主役は)
「ジークフリート」と暗示させるのだが、わかっていてもゾクゾクする

この演奏会はとてもコストパフォーマンスがいい
今回の席は普段なら高くて絶対座れないような1階のとても良い席を手にした
ただ困ったことがないではなかった
それは字幕が表示されるところがかなり上の位置にあったので
舞台を見るのとストーリを文字で追うには
視点の上下移動を頻繁にしなければならなかったこと
(でも贅沢な悩みだな、きっと)

次の「ジークフリート」は来年の9月と会場のポスターにあった
ジークリンデがジークフリートを産み落として成人になったところから始まるので
この1年以上の間隔は、その時間経過を考えると待ち遠しいけど良いものかもしれない

ということで、次もいくつもり
ただし、選べれるなら席は2階席のほうがいいかもしれない

 

 

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「ジークフリート」(新国立劇場)

2017年06月10日 09時31分36秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

長い長いヴァーグナーの畢生の大作「ニーベルングの指環」
その第3番目の演目「ジークフリート」を6月7日(水)新国立劇場見た(聴いた)

愛知県の田舎にいると指環を見ることはないと思っていたが
一昨年ちょいと足を伸ばして飯守泰次郎さんの「ラインの黄金」を見て
それが思いの外面白かったものだからこのチクルスを全部見ることに決めた

最近はオペラとかリートとか歌詞のあるのもは、老眼が進んで
文字を追いながらレコードやCDを聴くのがしんどくなっていて
ストーリーを追わずとも聴ける純音楽の方が楽でいい

と言っても折角の機会、持っているカラヤンの「ジークフリート」で
少しだけ予習した
ただあまり予習しすぎると現場での感動が薄れるかもしれないので
純音楽を聞くように歌詞は無視して音楽のみに耳をそばだてた

予習という点では もう一つ「ジークフリート」の公式HPの飯守泰次郎さんの
ピアノを使ってのライトモチーフの解説を見た(Youtubeにアップされているもの)
これがなかなか役立つ
ライトモチーフを知っているだけでストーリーの行間に流れるものが
理解できる(今流行の言葉を使うなら、ストーリーを忖度できる)

会場で始まる前、オーケストラの人たちがそれぞれ自分のパートのおさらいを
しているのが てとも気分を盛り上げる
それぞれがライトモチーフを演奏する
ファーフナーや魔の火、ノートゥング、運命、ワルハラのそれなど
バイロイトのように数分前のファンファーレはなくても
直ぐに行われるパフォーマンスに期待が高まる

このシリースは3回目となるのでだいぶ慣れてきた
歌詞が舞台の左右に表示されるが、大きな視点の移動をしなくても
さっと内容だけ理解して、舞台に集中して筋を追うことができる
最初に感じた歌手陣のパワフルな歌声も
今回はそれに圧倒されることなく、むしろストーリーをより効果的に
支えているものとして、つまり音楽の一部として聴けた

こうした楽劇とかオペラを見る時、音楽を聴いているのか
それとも筋を追っているのか、、時々わからなくなる
ライトモチーフの雄弁さを感じる時は明らかに音楽を聴いているような気もするし
興味はストーリー展開の方に支配されるようだし
結局はヴァーグナーの言うような総合芸術としての全体を感じているのかもしれない

あまりストーリーの予習をしなかったお陰で(?)舞台は面白く見ることができた
次はどうなるのか、、そんな興味がずっと続いた

特に「ジークフリート」ではダイジェストで使われる「森のささやき」のある
第二幕が大蛇の退治や叙情的なところもあり興味深かった
(この物語は メルヘンなのか神話のプロトタイプなのか)

物語は上の画像のように長い
第三幕もヴォータンの行く手を阻む試練も、自ら鍛え上げた剣で
ジークフリーは乗り越えて行く(ヴォータンのは内心喜ぶ)
そして炎に包まれ眠っているブリュンヒルデを発見
そして彼女の目を覚ます
その時に今まで知ることのなかった「怖れ」というものを知ることになる

このあたりのストーリーはパルジファルの場合にも2幕での
クンドリーとの関係で「同情を知る」という過程に似ていて
ヴァーグナーの定番のようなものかもしれない

そこまでは良かった
しかしそこからが長かった
ブリュンヒルデが目覚めてからジークフリートと運命をともにしようと
決心するまでが、話が行ったり来たり、、なかなか前に進まない
(まるで女性が焦らしているような、、、、)
少しこの部分長すぎるよな、、ヴァーグナーの脚本家としての限界って
こんなところにあるのだろうか、、、と思ったりした

結局、やはり筋を追っていたのかもしれない
指環は「筋を追う」物語なのかもしれない
だからこそ多様な読み替えの演出が後から後から生まれてくるのだろう

でも音楽がなかったら、ライトモチーフの複雑な感情を暗示させるものがなかったら
ここまで楽しめたかはわからない

歌手陣はヴァーグナー歌いで著名な方たちらしい、最近はレコード芸術等の雑誌も
読むことはなく、情報に疎い
その分偏見なしに目の前のものが良いか悪いか、好きか嫌いかが判断できる
この意味では評判通り歌手陣はすごかった、、、と思う

指環は残すところあと「神々の黄昏」だけになっている
ここまで来たのだから、今年の秋も見る(聴く)つもり
話が全部終わって、今まで奏でられたモチーフがいくつも登場し
振り返って、黄金が元のようにライン河にもどるそのシーン
つまりは大団円に向かうその音楽の効果はどんなものか、、、早く知りたい 
ヴァーグナーは天才か、人の心をつかむ怪物か、、、

 

 

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宗次ホール「イェルク・デームス ピアノリサイタル」

2017年05月04日 08時29分49秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

音楽家と宗教家は長生きすると言われている
この日の主役イェルク・デームスは88歳、日本で言えば米寿
母と同じ年齢だ 

74歳のポール・マッカートニーが相変わらずお茶目でパワフルなのと
同じように、名古屋宗次ホールで行われたリサイタルも
年齢を感じさせることはなかった

と言っても、足元は機敏というわけではなく肥った身体をノッソノッソと移動する感じで
昔見たチェリビダッケの指揮台まで歩く姿を思い出した
(あのときは、歩くシーンから静寂という音楽が始まっていたような気がした)

ところが演奏を始めると本領発揮
(ちょっとミスタッチもはあったけど自分は気にならず集中して聴けた)
弾き始めて何よりも驚いたのはその音色
なんと表現して良いのかわからないが、優雅で品があって余裕があって
今までこの会場(宗次ホール)で聴いていた音の記憶と違う
ピアノが今までと違うのだろうか、、、と疑問に思ったほどで
前半が終わった時点でピアノを確認すると、いつものスタンウェイ
何故、今回だけこんなに音色に気になるのか、、不思議な気がした
人間のすることだから同じ楽器でも出す音が違う、、、
と簡単に言ってしまえないほど印象に残った

プログラムはとても良い(自分好み)

バッハからモーツァルト、そしてベートーヴェン、ついでドビッシーとフランク
鍵盤楽器の音楽の表現の変化(その方法と内容)を比較できる
バッハの単一主題からの職人芸的な音響空間、時間の作り方
モーツァルトのホッとするような楽器間が歌うようなやり取り
ベートーヴェンのいい意味での効果を狙った心理的も必然性を感じる流れ
ドビッシーの響き自体の斬新さ、

バッハの半音階的幻想曲とフーガは、たまたまウイーン三羽烏のもう一人の
フリードリッヒ・グルダのレコードを昨年手に入れて自然と聴き比べることになるが
演奏比較というよりは、どちらかと言えば作曲者の方に関心がいく
バッハの音楽は音が詰まっている
真面目で定番的な安心感は毎度感じることで
音楽は感覚的(感情的)なものだけではないことを、そしてそういうことがドイツ人は
好きなんだということを改めて感じる

真面目なバッハの後のモーツァルトのなんという自由さと歌の心地よさ
押し付けることなく聞くほうが勝手に想像したり連想しなければ
その楽しみは真に味わえないかもしれないが、本当に無駄なくサラッと書いている
様なところがおよそ人が作ったものとは思えないモーツァルトの音楽
と言ってもケッヘル番号の遅い(K540)のアダージョ ロ短調は感覚だけでなく
もっと考えられて作られていると感じたが
この曲はめったに聴くことのない曲で、その分新鮮に楽しめたが、曲のある部分どうってこと無いフレーズ
モーツァルト特有のフイに淋しさを感じさせる瞬間がホンの僅かだけあって
その刹那、大事な秘密を見つけたようで、そしてそれはとても切なくて思わず涙が出そうになった
イェルク・デームスのピアノの音はこの音楽にぴったりだった

ニ短調の幻想曲はオペラのレシタティーヴォとアリアみたいなもので
(冒頭の美しい分散和音の弾き方を家ではレコードで聴き比べているが)
よく知っているだけに安心して聴けた

この後ベートーヴェンの最後のピアノソナタ32番となった
バッハとモーツァルトは続けて演奏したが、気分的な連続性はベートーヴェンまで
一気に行うと、どうなんだろう、、、という心配は余計なお世話で
モーツァルトを弾いたあとイエルク・デームスは一端舞台の端に行ったままで
(少し音楽的な興奮が収まるのを待って?)聴衆が次の曲への期待がたかまった
と思われる瞬間に、ノッソノッソと現れた

ベートーヴェンの32番のソナタ この曲は大好きだ
だからレコードでもCDでもいろんなピアニストのモノを持っている
しかし、実演で聴いたことはブレンデルの一回だけ
好きな曲となればこうあって欲しいという希望がどうしても出てくる
ブレンデルの音楽は、どうも相性がよくないようで、ピアノの音色が好みではなく
イマイチだったな、、、という印象しかない
 
イェルク・デームスの音色でベートーヴェンはどうか、、、
と少し心配はしたが、なんてことはない大丈夫、余計なお世話だった
特に第2楽章の感動的なこと、、冒頭の変奏曲のメロディはベートーヴェンが選びに選びぬいた
いや無駄なものを削り取って作り上げたシンプルな美しいもので
そこから導かれる変奏曲の中で実現される多様な世界
最後のソナタとあって、エロイカや5番を作曲した頃の充実した中期を連想させるような
充実した音の構築物としての変奏があれば
良いことも悪いことも、、それもまた人生!
と達観したような別の世界にいるような静かな音楽もある
(その前に鐘の音も響いてるような、、、)

本当はこれでこの日は充分で
後半はアンコールのような少し気楽な気持ちで聴いた
イェルク・デームスの音色はドビッシーにはぴったりだった
オーストリア人でフランス人ではないが、ドビッシーの音楽にも結構合うものだ
とそんなことを連想していた時、イェルク・デームスのピアノの出す音色は
ウィーンで地元の仲間の音を(ウィーンフィル等の)聴いているからに違いない
と根拠もない、しかし、きっとそうに違いないと思いが浮かんだ 

いつも身近に良い音を聴いている
ジャンル(楽器)は違っていてもそうして日常から自ずと身につく好みみたいなものが
彼のピアノの音の反映されているのだ、、、
そう思うことでこの日の気がかりは一端解決

生は本当に勝手なことを連想できるから楽しい
今後の予定では次は新国立劇場で「ジークフリート」となっているが
この演奏会で拍車がかかってその前に何か聴きに行くかもしれないな、、
 


 

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名フィルのブルックナー8番

2017年03月19日 08時33分21秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

新鮮な気持ちで聴きたいがために敢えて予習をしなかった
名フィルの定期演奏会のブルックナー8番

結局のところ、大好きな曲であるために頭のなかにはたくさんの記憶が残っていて
ついつい比較してしまう事となってしまった
ヴァントならここのところの響きは、もっとフワッとした感じだったとか
メータなら静寂の中の掛け合いはもう少し空間の(広さ)を感じたとか
朝比奈隆ならこの部分は必然性を感じるような繰り返しだったとか
フルトヴェングラーなら速度をあげるとこだったとか、、、

だからと言って不満だったわけではない
大曲、1時間20分を要する曲を退屈せずに聴くことが出来た
この日強く印象に残ったとと言えば
すべての楽器(多分)で大音量となるところの気持ちよさだ
やかましいとかうるさい、というのではなくて
特に人間の苦悩とか叫びを表現しているのではなく
ただ単に音響として濁りがなくて、子どもが音を出しっぱなしにして
喜ぶような、そんな感じで聴いていて疲れない

大音量のファンファーレ、
それは彼にとっては神に対する姿勢とか彼の作曲の傾向で
この音量の印象はチャイコフスキーなどの生々しい音色とは随分違う

ただこの日少し不満があるとすれば、豪快な演奏は良かったが
もう少しデリケートな部分があっても良かったのではないか
と感じられた部分がところどころあった点
もう少し他の楽器の奏する音楽を聞いて、自分のパートの音量や音色を考えるような
ところがあってもいいのではないかと

多分この曲を名フィルが感動的なものとするのは、あと何回もの演奏経験が必要な気がする
楽譜上を卒なく演奏できるととと、フレーズの持つ意味を感じ取ることとは違って
演歌歌手が歌い込んで自分のものとするように、何回も弾き込んで自分のものとする時間が
必要なように

まったく8番とは関係ないがフィナーレの楽章で、コーダの部分
全部の楽章のテーマが奏されるものすごい効果とかフォルテッシモの心地良さは
9番の未完の交響曲もブルックナーはこうやって終わりたかったんだろうな
と頭に浮かんだ
だからこそブルックナーは未完の場合には、「テ・デウム」を演奏して欲しいと言葉を残した
サイモン・ラトルのブルックナーの9番のアルバムには補作された4楽章が録音されている
一度聴いただけでは、てんでバラバラなよくわからない印象をもつが
慣れてくると、こういう表現をしたかったブルックナーの気持ちを
なんとなく分かるような気がしてくる

この日、予想に反して女性の方々も比較的多く見かけた
「不機嫌な姫とブルックナー団」の小説にもあるようにブルックナーの音楽は
男向け!と思っていたが、この日はそうではなかったのかもしれない

コンサートの前には、同じ建物で行われていたゴッホとゴーギャン展を見て時間を過ごした

大変な人出で落ち着いて見られなかったが、
こうした絵画展もかなりエネルギーを必要とする
それで全部を気合を入れて見ようとするのではなく、フト心に語りかけてきた作品を
じっくり見ようとする

この日一番記憶に残ったのはゴッホの地味な「靴」という作品
何か拡大鏡で(望遠レンズで拡大したような)語りかけるモノがあった
それは「すごいぞ」とか、少し「怖い」と言うものに通じる何かだった
昔、ミュンヘンで見た「ひまわり」を見た時に感じた迫力に通じるものがあるような
そんな感じ
この感じは暗い色調の「自画像」でも少し感じられた
その目が怖い
鋭いというのではなく、何か別世界の何かを見てるような、、、

この様に生に接することは、録音や印刷されたものとは感じる何かが違う
都会に住みたいとは思わないが、こうした機会に容易に触れられる都会人
を少し羨ましいと思ってしまう 

 

 


 

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新城吹奏楽団の演奏会

2016年12月05日 09時02分18秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

今朝は少し横着して自分の別のブログからのコピペ!
本当はこちら用に 違った感想をアップしようとしたが
面倒になってお茶を濁すことに、、、

以下が引用部分 

新城設楽原歴史資料館と新城市文化会館
昨日は同時刻に興味ある催しが行われた
どちらに行くべきか、少し悩んだ末に文化会館の方を選んだ

昨日行われた文化会館のイベントとは

新城吹奏楽団の定期演奏会

この日のプログラムが思いっきりそそられる内容
何しろ大好きなモーツァルトと
あれをやったら盛り上がるだろうなと想像されたショスタコーヴィッチの5番の終楽章がある
しかもチケット代が安い(前売り500円、当日券700円)

結果的に大大満足  楽しかった
素人の方々の純粋に音楽を楽しむ気持ちは上手い下手と関係なく
何か暖かいものを感じさせる

全体は3部構成
まず驚くのは指揮者の方の歩くスピードの早いこと
ササッと歩いて(年齢は分からないがそんなに若くなさそうなのに?)
指揮台に跳ねるようにのって時間をかけずに始める
集中を図るなんて間のとり方などはなく始める

最初の曲は指揮者の方の作曲された曲のようだ
なんとまあ、難しい曲から始めたものだ
音程が取りにくいのか、音があっているのかわからない
難しい和音(現代人にしかフィットしないような)が続く
ときに武満やメシアンを連想されるようなフレーズがあったり
こういう曲を素人の楽団でやるというのはすごいことだ
つづいて比較的聞きやすいものを続けて一部は終了

短い休みを挟んで、ピアノが中央に移動されて始まったのが
お楽しみのモーツァルトの時間
超有名なアイネ・クライネ・ナハトムジークから第一楽章
ただ楽器編成のためか重心がエラく低い方にあって軽快なと言うよりは
少し重めの感じが、、それと希望を言えばもう少しチャーミングな表情付けが出来たような、、

ピアノが出てきたのは20番のニ短調のピアノ協奏曲の第2楽章が演奏されるため
弦無しでどんなふうになるのかと思ったが意外に気にならなかった
最初はやはり硬い表情 フレーズも真面目っぽい
でも途中、モーツァルトがよく聴いてくださいよ!
というような中間の楽器管のやり取りの部分から調子が出来きた感じ
最初のメロディに戻ったときは今度はもう少し余裕があって柔らかな
表情になっていた

次はクラリネット協奏曲
この日一番の収穫はこれ
本当に楽しかった
奏者もこの曲が好きなんだろうと感じられたし
夢中になって演奏しているところが聴いてる方も心地よかった
晩年の作のこの曲 やっぱりすごいや
やっぱりレコードやCDより生(ライブ)がいい

3部はショスタコーヴィッチをメインに
少しばかりクセのあるひねくったフレーズの多い作曲家だ
それは彼の生きた時代を反映しているようだ
でも個性という面も大きく、またやってる!という部分も少なくない
最後の最後に演奏された交響曲5番の最終楽章
これは盛り上がるだろうな
と想像されたが、予想通り盛り上がった
景気のよい派手な音楽だが聴いてる方よりは演奏してる人たちが
楽しそう、思いっきり開放的に吹けるシーンが存分に有って
気分が高揚して、、

演奏途中で、まさか新城でショスタコーヴィッチが聴けるとは思っていなかったので
何かうるっとしたものを感じた

ということで、当日券700円分はお釣りが出るほど楽しんだ
アンコールもホッとした、くつろいだ感じに溢れた演出
これも良かった

ここまで 

2日続けて音楽三昧(METライブビューイングと新城吹奏楽団)だったが
軍配は昨日の文化会館の方
でも出来ることなら会場を満杯にしてあげたかったな
 

 

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METライブ・ビューイング「ドン・ジョバンニ」

2016年12月04日 08時19分22秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

昨日、電車は多少の遅れはあったものの時間には充分間にあった
チケットを前もって購入して、時間前にハプニングで会場に行けない
前回の反省を踏まえて今回は当日券を求めた 

METライブ・ビューイングの二作目は「ドン・ジョバンニ」

この地区では名古屋のミッドランドシネマしかやっていない
 昨日はこの映画の初日ということもあってなかなかの売れ行き
自分が手にいれたのは結構前目の右側の席
もう少し後ろの真ん中寄りが良かったけれど、仕方ない

ドン・ジョバンニは実演で一度見たことがある
それはどんなだったか情けないことにあまりよく覚えていない
しかし覚えていることもある
それはプレイボーイ・悪人、ひどい人物であるドン・ジョバンニだが
何故か彼を応援したくなっている自分がいたということ
多分反省しなさいという部分だと思うが、
「今更 反省の言葉を言うべきじゃない、そのまま突っ切れ!」
と感じたことだけは覚えている

しかし、昨日あらためて劇を見ていくと
ドン・ジョバンニは本当にひどい人物だ
やりたい放題、モラルなんてなし、口から出まかせ
その態度は「おいおいやりすぎだろう!」とツッコミを入れたくなるほど

しかし、この男の生命力、バイタリティはなんだろう
それを感じさせるのが多分音楽の力
モーツァルトの性格描写がすごいということなのだろうか
ドン・ジョバンニは確かにひどい人物だが
(こんな風に採りあげると文句が出そうだが)
彼だけが悪いわけじゃない
ドンナ・アンナは別としてドンナ・エルヴィーラやツェルリーナは
彼に騙されたり騙されそうになっている
それはドン・ジョバンニが言葉巧みだったというよりは
彼女らにそういう一面があるということではないのか
ものごとは男一人だけでは進まない
その微妙なところをダ・ポンテの台本をモーツァルトは
イタリア語のどこか騒がしい早口のセリフと音楽で描写している

多分、昨日は音楽というより劇の方に関心は行ったようだ
でも劇中に「もう飛ぶまいぞこの蝶々」が出て来るあたりは
作曲家自身もサービス精神というよりは
ノッて作曲しているような気がした

音楽は、指揮がファビオ・ルイージ
最近レコード芸術とか音楽の本を読んでいないので
この人がどんな人かよくわからないが
記憶をたどるとどこかで聞いたことのある名前のようだ
昔、ブルックナーの7番を名古屋で指揮した人のような記憶が、、
違ってるかもしれない
ただ、そのときは感心しなかったな
で映画の中の指揮ぶりは、、、
特に驚くほどのことはなかった
序曲冒頭の音も、もう少し緊張感のある音があっても良かった

歌手陣は演技も含めて見慣れていないので(聴き慣れていないので)
それがうまいのかどうなのかはわからない
ただドン・ジョバンニとツェルリーナ、それとレポレッロ のキャラクターは
感情移入が容易に出来るほどだった

しかし、この歌劇は悲劇なのか喜劇なのか
悪人は地獄に落ちるという教訓じみた物語なのか
といえば、必ずしもそうでないような気がしてならない
あまりにもドン・ジョバンニの性格を示す音楽が雄弁過ぎる
多分、人には矛盾した様々な感情をもっていて
一面的に正義を言うのはどこか胡散臭いということを
それとなく語っているような、、、
いやこれは考えすぎか

ところで、昨晩家に帰ったあとYoutubeで「魔笛」の一部を見た
ドイツ語の響き、民謡的なメロディ、屈託のない無邪気な音楽
やっぱり、自分は魔笛が好きだと再確認 
子どもたちにも人気があるのがわかる気がする

ところでMETライブビューイングの入場券の半券があれば
次回は300円安くなるということだ
次があるかどうかは今のところ分からないが
大事にとっておかねば、、
 

 

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