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あれこれ思うこと(備忘録)

2017年09月08日 09時27分27秒 | あれこれ考えること

少しまとまらない話

最近、自分の住む新城市でも「市民自治」なる言葉がよく聞かれるようになっている
新城市に限らず各自治体が今後進むべき方向性を示した言葉のようだが
何をもって到達点なのかが、現状を見るとかなり想像しにくい
自分のことは自分で決める、大まかに言えばそんなところかもしれないが
果たしてそんな自由を人々は本当に欲しているのか(「カラマーゾフの兄弟」の大審問官の章、「自由からの逃走」の指摘)
そして大衆は正しい判断をしうるのか(「大衆の反逆」)
ここのところは、そもそも民主主義とは何か?とかの視点で考えることも必要で
民主主義を一方的に良きものとしては考えられないとする人たちも存在する(変に過激な人たちではなくても例えば 西部邁、佐伯啓思)
なんとなく変人ぽい印象がしないでもないが、とりあえず読む(考えを聞く)価値はあると思われる 

物事の判断はまずは自分自身の実感を基にする
日頃この手の話に取り組んでいる人と、そうでない自分のような人間とは
かなりの温度差が生まれる
自分は、上には上がいて、下には下がいる といった感じの
おそらく多くの人が感じるような普通の人間(庶民)の立場

話はいきなり現実世界の例となるが
その普通の人間が、先日任期最後の新城市の定例市議会(一般質問)の傍聴に出かけた
常識的には選挙前のこんな時期だから、いつもとは違う光景が見られるはず、、
と予想したのだが、そこで見かけた光景は、いつもと変わらない光景
いや議員さんの質問は多少選挙を意識したパフォーマンスの面も感じないこともなかった
(ほとんどの議員さんは質問の台に立ったが、この時期にでも質問に立たない議員さんがいた
 何を考えているのか、、と疑うが、その議員さんは質問しないほうがイメージダウンは少ない
と思われるほどいつもの質問はしどろもどろ)

いつもと変わらない光景というのは、傍聴者のことで、その数が少ないままだったこと
議員さんが気にしているほど現時点での庶民の関心は高くないようだ
それでも、ある議員さんの質問を聞いたらさっさと帰る人が何人かいた
結局のところ、どんな場合も応援団のような人が、その晴れ姿を見るというのが実態のようだ
(ごくたまに質問テーマの関心があって広く人が集まるということはあるが)

しかし、よくよく考えると傍聴者が少ないのは、よく指摘される物理的な時間がないという要素よりも
もう少し違う理由があるのではないか、、
それは、質問が(傍聴が)面白いか(興味深いか)、、という点 
確かに議会ではいろんなことが話される
今まで知らなかったこと(現状とか法律的な面)これから進められていくこと
そしてこれらが生活に結びついていくのは想像できる
だが、これには(我慢して)聞くとの条件がつく
なぜなら、そこで話される問題について理解するには前提として、その話題についての
それなりの知識(情報・法律面)と想像力が聞く方にも必要となる
そうした知識があって初めて議員さんの質問の意図も能力も分かる
しかし、問題は一般のひとはその前提となる知識や法律の面まで知ることが
できるか(知る必要は有るか)という点だ

市民自治という言葉が使われる場合
ある程度の知識や情報は一般人も持つべきで、個人個人は理性的な判断のもとに
行動するとされる(ある時は対案まで要求される?)
しかし、低次元の自分が見る一般人はそのような行動はしていない(しない)
もちろん一部のとても頭の良い批判力のみならず対案まで出しうるような人物も存在する
(その人は結果的に幾つもの仕事を請け負うことになるが)
だがその数は圧倒的に少ない

ところで、前提となる知識や情報は一般人には困難極まるが、実は議員さんにとっても難しいのではないか
三日間に渡って行われた一般質問だが、議員さんは自分が行った以外の人の質問をどのくらい理解しているのだろう
特に専門的な知識(不動産取引や都市計画法など細部にわたるもの)などは、少しばかり本で読んで
すぐさま自分のものとして身につくようなものではない(きっと)
だから市民がわからない難しい問題は議員さんお任せするように、議員さんも難しい問題の大半は
職員(官僚)さんにおまかせするようになる
そして議員さんは判断するだけ、議決するだけの機能を持つことになる

そこまで極端なことはなくても、自分の専門外のある分野に於いては、他のその分野に詳しい議員さんにお任せということになる
結局のところ、一人ひとりの力には限界があって、ある分野は専門的な知識に長けた人におまかせする
のが合理的な進め方となる(議員さん間でも、一般人と議員さんの関係においても)
一般人は難しいことはわからないから、よくわかっているだろう(と思われる)議員さんの全人格的な
判断を信じることとする
そこで問題となるのは、その議員さんの全人格的な判断力というのが、、文字通り実行されうるかという点
人間社会はなかなかややこしくて、理想通りにいかないのが常
議員さんに託された全人格的な判断は、議員さんという個人の生活、環境に大きく左右される
(次の選挙にはどのように行動したら得か、、など)

議員さんの判断が、どのような規準で行われているか
を一般人が知ることは、とても難しいということだ
判断されたことは分かる(議会だよりで賛否の報告などで)
しかし、その判断が本当に良いものか、その判断の根拠などは
議会の現場を知らない人にはわからない
ここで議会傍聴が必要になるが、大きな壁があってなかなかできないという現実にぶち当たる

そこで、市政に関心を持ちましょう  とか言われても上から目線からの掛け声は
一般市民には「やらされ感」が強く素直に同意できない
また住民は当事者として直結する問題に関しては何よりも優先的に考えやすいが
多少想像力を使わねばならない問題は他人事の様に感じてしまう

そんな現実の中、はたして本当に市民自治というものが進んでいるかは正直わからない
システムの上で新城市には「まちづくり集会」「地域自治区」「若者議会」「女性議会」など
ある種の責任を任された活動が存在する
ところが、住民としての実感は(ここでの住民はそれらの活動の参加者ではない住民)
現実にそれらが何をしているかよくわからず、世間で言われる市民自治が進んでいるような
感覚は持てないでいる
もちろん、どんな場合にもすべての人が知りうるような活動や政策などは存在しない
結局は知りたい意欲をもった人たちが知るだけ、に落ち着くところだと思われる
そうなると、結局のところエリートさんに頑張ってもらうしか手はないのかもしない
エリートとは必ずしも議員さんのことではなく、オルテガの言うように、普通の人であったとしても
自らのなかにより以上のものを求めるメンタリティをもった人のことで
具体的には「市政に関心を持ってしまった人」のことで、正規分布のグラフにおける左の部分に当たる人だ

頑張れる人が、頑張るしかない   そんなところが現実なのかな
(これだけぐだぐだと文字を使って、いったい何が言いたいんだか、、
  でも、ちょいと気になっていることなので、、忘れぬようにと)
 



 

 

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