明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



先日ツイッターで、今年某作家生誕○○○周年ということを知った。只今出版に向けて制作を開始したのは、この作家の著作のビジュアル化である。つまり私が出版の話をした相手で、なるほど今年は丁度良いな。と思った人がいたかもしれないが、それはまったくの偶然である。以降当然知っていて決めたことにする。 先日携帯の液晶を壊して修理を依頼し、書類に日付を書くとき今年が何年か訊いてしまったが、直したと思ったらまた修理ということになり、また訊いてしまった。日にちを訊くのはどうということはないが、年を訊くのは少々恥ずかしい。平成を十年も間違えた場合は、ちょっとウッカリして、という小芝居は必ず必用であろう。 30代の頃からすでに自分の齢が出てこないことは良くあった。年号が身に沁みるには365日は私には短すぎる。母の誕生日も8月ということしか覚えられないし、父の命日に至っては4月か5月のどちらかであろう。日にちなど連続した時間のただ一点であって、それが3だから5だからといって、それほどの意味があるとは私には思えないのである。 数字というものはすでにあるから利用しているが、自分の為だけだったら本当に必要なのか、と思わなくもない。時間などは数字で区切らず、谷啓的にいって、ただ“ビロ~ン”としたもの、というわけにはいかないものであろうか。こんなことをいっていては社会では生きていけない。ここだけの話である。 しかしKさんの日々の行動を見ていると、自分の年齢は自覚すべきだ、と思わされる。小学生が退職金と年金でフラフラというのはヘンである。

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