明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



ある泉鏡花作品のモデルだといわれている場所を検索したら、頭に描いていた場所そのままで驚いてしまった。出てくる地名も似ていて、ここにまず間違いはない。ちょっとした部分の左右を逆に変えているところが妙にリアルだが、無性に現場に行ってみたい。どうも近いうちに行ってしまう気がする。  鏡花作品に『葛飾砂子』(昭16)がある。これに門前仲町から小船に乗って、洲崎遊郭に向うシーンがあり、極近所の平久橋のかたわらにある『波除碑』にたいする描写がある。碑は現在、震災、戦災で三分の一ほどにチビてしまって何が書かれていたか判らない。この碑には何度か触れたことがあるが、鏡花は書いている。 『白珊瑚の枝に似た貝殻だらけの海苔粗朶が堆(うずたかく)棄ててあるのに、根を隠して、薄ら蒼い一基の石碑が、手の届きそうな処に人の背よりも高い。』『「おお、気味悪い。」と舷を左へ坐りかわった縞の羽織は大いに悄気る。「とっさん、何だろう。」「これかね、寛政子年の津浪に死骸の固まっていた処だ。」正面に、 葛飾郡永代築地 と鐫りつけ、おもてから背後へ草書をまわして、此処寛政三年波あれの時、家流れ人死するもの少からず、此の後高波の変はかりがたく、溺死の難なしというべからず、是に寄りて西入船町を限り、東吉祥寺前に至るまで凡そ長さ二百八十間余の所、家居取払い空地となし置くものなり。 と記して傍に、寛政六年甲寅十二月 日とある石の記念碑である。「ほう、水死人の、そうか、謂ば土左衛門塚。」「おっと船中にてさようなことを、」と鳥打はつむりを縮めて、 「や!」 響くは凄すさまじい水の音、神川橋の下を潜って水門を抜けて矢を射るごとく海に注ぐ流の声なり。』 神川橋が現平久橋ということになろう。つまりここは当時房総半島まで見えた波打ち際で、津波のため江戸幕府が居住禁止区域に指定したわけである。そして現在煮込みの名店のある平野橋をくぐって洲崎の遊郭街に向うわけだが、作中では『次第に洲崎のこの辺土手は一面の薄原(すすきばら)』『「ここでも人ッ子を見ないわ。」』という寂しい場所だったようだが、洲崎遊郭まであと一歩。当時の遊び人はさぞ気がせいたことであろう。  初めて読んだ時は家の横を鏡花が、と興奮して真夜中に改めて石碑を見に行ってしまった。実にローカルな話である。それにしても住むな、というのに現在は埋め立てられ海岸線ははるか彼方である。岩手県の宮古市には、先人の石碑の教えを守って助かった集落があったが。

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