明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



築地の癌センター帰りの高校時代の友人Sと会い、木場公園を散歩。昨年11月の個展以来である。 昨年久しぶりの電話だと思ったら脳腫瘍で手術をしたといわれた。その時は思い出せない単語が多く、会話に随分間が開いたが、今日はその間が短くなっていた。あいかわらず言葉が出てこないというが、幸い我々の齢になると、そのことはたいして目立たない。それに欧米人じゃあるまいし、人との会話には十分間を取り、余韻を味わい語り合うのが日本人のスタイルである。最近の酒場では、特に人の話を訊こうともせず、自分の話ばかり続けている人物が多い。よほど普段、職場や家庭で話を訊いてもらえていないのだ、と悲痛に感じることさえあるし、またアルコールで頭が少しヘンになっているのであろう。私など人の話の後に間を取らないと、話を聞いてませんでした、という感じになり失礼になる、とさえ思うので、結局、黙って訊く形になることが多い。相槌が上手すぎるのにも問題があろう。しかし反面、かつては何も考えていなくても、何か考えているように思われ得をすることも多かった。「石塚さんって何を考えているか判らないわ」。私はこれを褒め言葉だと解釈していたのだが?酒場で寡黙な藤竜也だって、きっと何も考えていなかったに違いない。  Sは高校時代、一年の時から某プロ野球選手の姉に英語を習っていたという。初耳である。だいたいお前はそうやって、陰で隠れて勉強するような奴なんだよ。いや、もともと訊かれもしない余計なことは口にしない男であった。よって幸か不幸か本人が思うほどには、はたからはたいして以前と違いは感じられない。違いといえば、個展会場で数年ぶりに会い、今までの彼からは考えられないお洒落に変身していたので、開頭手術の影響でそんなこともあるのか、と本気で思っていたのだが、午前中は寒かったからとはいえ、その時とほぼ同じ格好で現れた。これは彼のセンスではなく、誰かにコーディネイトしてもらった結果ではないのか?私は大いに疑念を持った。桜が散る頃もう一度会えば判ることである。

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