午前中、家の前の通りを歩いていると、水槽に入った2匹の亀を家の前に置いている家がある。ジッと見る。そうか私の頭にあったのは海水性の亀であり、河童は本来淡水性である。河童の甲羅の話である。一挙にイメージが変わる。 ブログで度々書いているが、集中している時に限って、誰かが私のために参考にせよ、と用意してくれているのではないか?ということが起きる。あまりに重なると気持ち悪く、子供の時に読んだSFを思い出すのである。 地球はとっくに滅亡しており、私はたった一つ、地球から脱出した脳髄で、容器の中でプカプカ浮かびながら、電気刺激によって架空の人生を生き続けている。今回の人生は東京の下町に住み河童を作り始めた男。というわけである。どうやら今回は変な所に電気が当ってしまったらしい。
昨日は、河童といえば柳田國男ということで並べてみたが、初めは原作者の泉鏡花と並べようと思っていた。何故止めたかというと、潔癖症の鏡花が、生臭くてヌラヌラベトベトした生き物の側に近寄るはずがないからである。 ナマ物は一切口にしない。豆腐だって酒だって、煮るというより煮えくりかえさないと安心できない。“鏡花先生のは熱燗ではなく煮え燗だ”といったのは久保田万太郎だったろうか。その一度煮立たせた酒を入れるお銚子にしても、蝿が止まるのを怖れ、紙の蓋をする。愛用の煙管も吸い口には、奥さんのすず御手製のキャップが被せてある。 鏡花が舟遊びなどして、お重の料理を肴に酒を飲むとしよう。そのお重を開けるときは、開けるというより蓋の端をちょっと持ち上げ、中を覗き込むようにして箸で摘むみ、すぐ蓋をする。始終、アルコールを染ませた脱脂綿で指を拭いているにも係わらず、アンパンを上下左右まんべんなく炙って食べ、指で持った部分は捨てる。万事この調子である。見た目のグロテスクな物だって一切食べない。しかし書く分にはその反動か、嫌いな蛇も登場するし、河童にしても妙にヌラヌラベトベトした感じである。
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