明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



朝、オークションで落札したアナログカメラ用300ミリレンズが届いたので、上野動物園に撮影に行くことにした。鏡花作品出版に向けて1回目の撮影である。舞台が梅雨時であるので、曇り空は丁度良い。動物はほとんど合成になるので、影がないのは好都合である。影があると方向ができてしまって、背景を選ぶことになる。 こんな時には昼間から酒飲むより良いだろう、とKさんを誘う。木場のヨーカドーで食事をして出かける。 上野動物園は、『乱歩 夜の夢こそまこと』(パロル舎/絶版)の中の『目羅博士の不思議な犯罪』で冒頭の動物園の猿山のシーンを撮りに来て以来である。乱歩は作る側からいえば、イメージを喚起する力が強くて、やってて実に楽しかった。荒唐無稽なシーン。例えば女の切断した脚を風船で浅草寺の上を飛ばしても、だってそう書いてあるんだから、と愉快であった。 今回は鏡花であるが、動物園に到着早々、難問にぶつかる。犬猫ならともかく、鏡花作品に出てくるような山に住む獣類は、ほとんど夜行性である。昼間は穴から出てこないではないか。ない物は撮れないのが写真最大の欠点である。私は向田邦子に猫を抱かせて以来、毛のある物には懲りて、植村直己では本物を使った。ないなら作ろうという気にはなれない。しかし植村直己は本物の毛を使ったせいで、逆に植村本人の粘土製の髪に違和感が生じ、同じマンションに住む人に私の髪を撮ってもらって貼り付けた。本末転倒とはこのことである。 ミミズクを撮りに行くが、こいつも寝ていやがる。Kさんは鹿児島で子供の頃、フクロウがいる穴の中に竹竿を突っ込んだら、フクロウが竹竿に乗っかって出てきたという。Kさんはホラばかり吹いているが、動物関連だけは嘘をつかない。 歩き疲れてしのばずの池を眺めながらビールを飲む。すると、食べ物を狙ったカラスが1羽。カラスは警戒心が強く、難問だと考えていたが、あっさり撮影に成功。動物園にわざわざ出かけて収穫はカラスというお粗末。

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段ボール箱の底からカセットテープが出てきた。プレイヤーがないので聴けないのだが。 70年代、ニッポン放送で『かぜ耕士のたむたむたいむ』という番組があった。『あおい君と佐藤君』の後『コッキーポップ』の前である。そこにリスナーから募った自作自演の曲を流すコーナーがあり、幼稚園からの幼馴染と送った曲が流れた。74年前後の話である。 次回どんな曲が流れるか予告があるわけではないので、Nは毎日放送を録音していたが、一ヶ月後、どういう訳か予告が流れた。しかし、バンド名が違っていたので聞き違いかも、と学校ではあまりいわなかった。バンド名は『N顕君とそのグループ』という噴飯物のバンド名である。送ったNはカセットにちゃんと書いた、といっていたから封筒にも書くべきだったのであろう。 当時プログレにはまっていたが、バンドといっても、N顕君と、そのグループである私の二人だけで、私が作曲、歌、コーラス、ドラムを担当し、Nはグレコのレスポールによる(デイヴ・ギルモアのつもりの)スライドギターとリズムギター、録音、効果音。ベースはどちらがやったか想い出せない。二台のカセットはデッキですらなく、一台は英語学習用という有様で、Nは音の劣化を最小限に留めるため苦労していた。これでプログレというのだから、青春のツラの皮は実に厚い。 そのNは数年前に亡くなった。父の亡くなったすぐ後で、父に続いて幼馴染の死に顔を見る気になれず、葬儀には出なかった。 私を未だに公昭ちゃんと呼ぶNのお袋さんと、母は近所なのでしょっちゅう会っている。せっかくだから聴かせてあげたいと思っている。聴こえてくるのは私の声だが、なにしろ『N顕君とそのグループ』である。 友人がデジタルに変換してCDにしてくれるというのだが躊躇している。曲名が本日のブログのタイトルである。これを聴くのには相当勇気がいる。シラフでは絶対無理である。 ただこの辺りも曖昧なのだが、グループ名同様、タイトルも『大地に還る歌』と変わっていたような気もする。だったらまだマシであろう。
懐かしくて検索していたら、かぜ耕士氏は『かぜ耕士のたむたむたいむ』というHPをお持ちで、ウェブラジオの認証キーを送っていただいたのが御本人で驚いてしまった。

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午前中、家の前の通りを歩いていると、水槽に入った2匹の亀を家の前に置いている家がある。ジッと見る。そうか私の頭にあったのは海水性の亀であり、河童は本来淡水性である。河童の甲羅の話である。一挙にイメージが変わる。 ブログで度々書いているが、集中している時に限って、誰かが私のために参考にせよ、と用意してくれているのではないか?ということが起きる。あまりに重なると気持ち悪く、子供の時に読んだSFを思い出すのである。 地球はとっくに滅亡しており、私はたった一つ、地球から脱出した脳髄で、容器の中でプカプカ浮かびながら、電気刺激によって架空の人生を生き続けている。今回の人生は東京の下町に住み河童を作り始めた男。というわけである。どうやら今回は変な所に電気が当ってしまったらしい。
昨日は、河童といえば柳田國男ということで並べてみたが、初めは原作者の泉鏡花と並べようと思っていた。何故止めたかというと、潔癖症の鏡花が、生臭くてヌラヌラベトベトした生き物の側に近寄るはずがないからである。 ナマ物は一切口にしない。豆腐だって酒だって、煮るというより煮えくりかえさないと安心できない。“鏡花先生のは熱燗ではなく煮え燗だ”といったのは久保田万太郎だったろうか。その一度煮立たせた酒を入れるお銚子にしても、蝿が止まるのを怖れ、紙の蓋をする。愛用の煙管も吸い口には、奥さんのすず御手製のキャップが被せてある。 鏡花が舟遊びなどして、お重の料理を肴に酒を飲むとしよう。そのお重を開けるときは、開けるというより蓋の端をちょっと持ち上げ、中を覗き込むようにして箸で摘むみ、すぐ蓋をする。始終、アルコールを染ませた脱脂綿で指を拭いているにも係わらず、アンパンを上下左右まんべんなく炙って食べ、指で持った部分は捨てる。万事この調子である。見た目のグロテスクな物だって一切食べない。しかし書く分にはその反動か、嫌いな蛇も登場するし、河童にしても妙にヌラヌラベトベトした感じである。

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夕方、雲行きが怪しくなってきたので、外で河童の試写。着彩は、もう一体作ってからにする。 ヘアースタイルやはりへん。だいたいたいプラモデルなど、何故昔から下手糞かというと、接着剤でベトベトやってしまって失敗する。まして今回は人毛である。ベタベタしてるうちに、汚くなり不揃いになり。己がブキッチョさに呆れる。好きなことと向いていることは必ずしも一致しないし、むしろほとんど一致しないものであろう。しかし何事をも凌駕するのは、好きだ、という一点である。それはともかく。  河童に人毛を使ってみて判った人毛の威力。他の物は考えられない。特に雨に濡れ、河童の顔面に不気味に張り付いたところなど、間違いなく違いが出るであろう。  屋上で撮影していて思いつき、柳田國男の頭部を持ってきて、顔を寄り添わせツーショット。一度作ってしまえば、こんなこともできるのが立体の良いところである。
昨日、体調不良なのに、うわ言のように「オナゴオナゴ」といいながらフラフラ飲みに行くKさんを、私と共に、呆れながら見送ったMさんは、当ブログはKの文字だけ探して読むといっていた。だったら嵐山光三郎さんのABC文体“~でR”みたいにKを多用し、興味ないことも読ませてやれ、と思ったが無理であった。

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河童  


只今制作中の妖怪は河童である。毛を植えたら妙なヘアースタイルになってしまった。河童に妙ではないヘアースタイルがあるのかは判らないが。皿の作りから改良し、改めて植毛することにした。皿は水を溜める都合上、凹状でないとならない。 制作中の作品を、よくK本で披露するが、よほどの有名人だろうと知らない人は知らないが、河童は老若男女、誰だって何らかのイメージをもっているので解説の必要がない。 この泉鏡花作品に登場する河童は、特別変わったところはない。青味がかって1メートル弱、生臭くてベトベトしている。しいていえば、指先に吸盤があるのは珍らしいし、“ひょうひょう”と空を飛ぶ。そして本来淡水性に係わらず、空を飛んで房総の海岸に現れるのである。羽が生えていたら、鏡花はかならず描写したろう、言及していないので、妖術によって空を飛ぶと判断した。羽をつけてしまうと烏天狗と紛らわしい。 
やることなすこと、この河童にそっくりな近所の人物には、本日も早朝から泥酔状態の電話で起された。夜、体調が回復したはずが、、女性客とはしゃいでいたと思ったら、もう駄目だ、とT千穂の座敷で寝ている。閉店時間になり外へでた。一緒に買い物をして帰ろう、と思ったら、もう一軒付き合ってという。断わると口の中で“オナゴ、オナゴ”とうわ言のように呟きながらフラフラ歩いていった。  この界隈には私も含め、判っちゃいるけど止められない人達が数多い。人と自分を比較し、私はまだマシ幸せだ、と考えるのは実に品のないことであって、決してしてはならないが、このKという生き物は、私達はまだマシと思わせるために表れた妖精なのだと思う。  帰宅後、妖精から電話がかかってこないよう、携帯の電源を切ったのであった。

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コーナンに材料を買いに行くついでに、所有しているなかでは、エース級の変態レンズをデジタル一眼に着けて出かけた。最近は合成ばかりで、レンズの味が邪魔になるので、この手のレンズを持ち出すのは久しぶりである。 せっかくの晴天だが、ロクなことにならないのは判っているので、光のあるところにレンズを向ける気はなく、撮影するのは日陰だけである。東ドイツ製のこのレンズ。やはり日陰で撮るとコントラストが低く、陰鬱に写る。すでに梅雨入りしたかのようである。 買い物を終え、家々の玄関先に咲く紫陽花などを撮りながら帰る。花によっては花に申し訳ないくらい色が変である。 富岡八幡の境内で、木の根元の葉っぱを撮った時であった。この変態的駄目レンズが、突如やる気を出した。出来の悪いのが80点出すのと、もともと出来の良いのが80点出すのとでは、点数に表せない部分で美しさが違う。特定の極せまい条件の元では、120点出すことも可能であろう。かくいう私自信がせまい条件のなかで、日々ジタバタ暮らしているので、妙にツンと来た。桜田淳子的にいえば、“このレンズは私です”といったところであろう。 昨日に続きタイトルを変態的レンズ2とするつもりが、私です、といった手前、変更。

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ヤフオクで撮影用小物を落札。たった1カットのために。またしても撮影終了後、どうしようもない物が届くことになる。妙な物を欲しがる人がいるから、競ってしまったではないか。こんな物どうしようというのだ?(先方でもいっているだろう) 今まで出品したことはないが、こうガラクタが増えてくると考えた方が良さそうである。 

入梅後撮影に入る予定で、持って行くレンズを選んでいる。先日も書いたが、ウ○コ撮るのに、何も美味しそうに撮れるレンズを使う必要はない。今回の対象は、気持ち悪いのが本業ともいうべき妖怪である。ヘンなレンズを使うべきであろう。試しに手持ちのかなりなレンズを使い、妖怪の目玉の向きを按配し、恨めしげな表情で撮ってみたら。Kさんと飲んだ後別れ、その後私が一人でどこか飲みに行って、自分だけ楽しく過ごすんじゃないだろうな?と大通りの反対側から私をジッと見てる。そんな怖い感じに写った。こんな時隠れているとコソコソ追いかけてきて、私のいない店に入っていく。  さらに今回、海外でも評価ボロクソのスペシャルレンズをEbayで落札した。凡そこの手のレンズは安価なカメラの標準レンズで、まず映ることが肝腎で、あとのことはとりあえず、というトリプレットタイプのレンズに多い。「こんなレンズを発売したら、我々には世界がこんな風に見えていると思われてしまうじゃないですか!」「ニッポン人ならともかく、我が国には、そんなこと気にするユーザーなどおらんよ」。 何が良いといって、おかげで価格がスペシャルに安価なことである。売るほうも判っていて。Buy It Nowで即決である。

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制作中の妖怪は、ようやく着彩と植毛を残し完成である。こういった怪獣、怪物、妖怪の類を“カッコイイ”と評したのは、私の世代が第一世代ではないだろうか。 幼い私には、ゴジラと力道山は完璧なフォルムに見えたものである。作っていて愉快であることは、小学生時代と全く変わらなかった。 妖怪といっても最もポピュラーな物であることは、当ブログを見ていただいている方は、凡そお判りであろう。私は人間と日本猿、蛙と亀が混ざったようなものだろうと想像した。それで泉鏡花原作となれば限られてくる。 主人公の生臭くて表面がベトベトしたそいつは、性格、性根がKさんそのままである。イニシャルだってKといえばKである。作中、娘の尻を触ろうとして怪我をする。怪我をして腹を立てているが、そもそも自分の不心得がたたったからで、怒る筋合いではないのである。 こう書いているとますますKさんは、創作の神が私に遣わした妖精なのではないか、と思えてくる。ひょっとして私が作品を完成させたとたん、スカスカのザックを背負ったまま、煙のようにどこかへ消えてしまうのではないか?  これは是非完成を急がなければならない。

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先週旅に出る、とたいした物も入っていない、スカスカのザックを背負い家をでたKさん。どうしても早朝T屋に寄って、かみさんに旅立ちの報告をせずにはいられない。出かけたところで日帰りか、せいぜい一泊なのだが。しかし飲んでいるうち昼近くになり結局パチンコ屋、酔っ払ったまま夜に突入。これを着替えもしないまま、しかしザックだけは背負って5日は続けた。その間、例えばお二人様からしか入れてもらえない店など付き合わされる。女性が横には坐らない店なのに、一人反則を犯しながら「もういつ死んでもいい」を連発し絶好調である。ところがKさんは、酔っているので元気なだけで、内部では疲労が蓄積され、崩壊は始まっている。嬉しそうにはしゃぎながら、つまり“お前はもう死んでいる”状態なのである。 この『Kさん祭り』が始まったら、もう誰にも止められない。私も諦めている。そして事件?が起きるのは、たいてい私がいない時である。あげくに翌日呼び出され、ロレツが回らない状態で、私が一枚噛んでいたことにしてメールして、と頼まれたりする。その作戦がまた、小学生の私が塾をズル休みするために考えた言い訳より貧弱なのである。さらに解せないのは、Kさんがモテてしまって女性連の交通整理に困ったあげくに、というならまだしも、その気配は私の知る限り、路傍の花がソヨとも動かないほど無風状態である。何をどう思い込むのか、この一人相撲は謎である。 先週の土曜深夜、千鳥足のKさんが某女性と帰宅する姿が目撃されている。といっても、酔っ払いがただ近くまで送られただけである。これが今回の 、いつもより長く開催されたKさん祭りの終わり、と判断して良いだろう。 本日夕方、「体調悪くて寝込んでます」。というお馴染みのメールが着た。次回のKさん祭りまで少々静かであろう。

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只今制作中の妖怪は一体目が完成に近づいている。撮影用に視線に変化をつけられるよう、初めて眼球を可動式にしている。しかし目玉の着彩に失敗。どうせなら幾つも作れば良いものを、練習、試作嫌い、保険嫌い。二つしか作らなかった。作ることでは失敗することを考えないタチである。他のことだと常に最悪のことを考えて、いざという時のショックを和らげようとする小心なタチなのだが。
昨日K本で、小学校で草木や兎の世話など、ボランティアでやってる元大工のSさんに、使い古した麦藁帽がないか聞いてみたら十年物があるという。撮影の小物として必用なのである。古びた感じは、出そうとしても、そう出る物ではない。昔、新品のコートを父に委ね、着古させようと企んだら、妹の旦那にあげてしまった。人の話を聞いていない父親であった。 本日は古びた太鼓をヤフーで落札したが、いちいちこんなガラクタを必用だから、と集めていたらキリがない。  Sさんは80歳くらいなのにK本の前に、K越屋ですでにひっかけてきている。ロレツが怪しくなりながら十八番の洲崎遊郭の話。「今の若い人は本当に可愛そうだよ」。口癖である。大工の小僧時代の修行の話など。親方はそうとうな大酒飲みだったそうで、小僧のSさんに現場をまかせて飲みにいってしまったそうである。  「明日の朝、ドアノブに味醂干しをかけといてやるよ」。よく私の寝ている間に、採りたてのピーマンなどかけておいてくれる。しかし朝になってみると、かけてあるのは“味醂干し”ではなく“麦藁帽子”であった。

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初志貫徹的イメージがある三島が、初めに手掛けたスポーツ、ボクシングを何故止めたのか知りたかったが、鈴木邦男さんの『遺魂』(無双舎)に始めたきっかけを含め出て来る。

銀座のゲイバーで外人の喧嘩を止めたのが安部譲二。「君が今、使った術は何ですか」「ボクシングです」。三島は笹崎ジムを紹介されたそうだが、安部がジムの人間に「あの方は頭で仕事する偉い先生だから、ボクシング教えてもいいけど頭を叩くんじゃないぞ」。しかし加減をされていることに気づいた三島は「僕は不愉快です!」と安部に青筋立てて叫んだそうである。「それは僕が言いました。当たり所が悪いと涎がたれっぱなしになるし、“さしすせそ”も“たちつてと”も言えなくなります。ボクシングで食っていく方じゃないんだから、頭を叩かないよう頼んだんです。何が悪いんですか」。三島は怒って席を蹴立てて帰るが、その後ボディビルに転向する。
それにしても三島関連本を読むと石原慎太郎という人物は、つくづく三島を虐めるのが得意である。初対面では「思ったより小さいですね」。三島が芝居に出れば「足が震えてましたね」。いちいち、一番三島がいわれたくないことをいう。相手の気持ちはどうでもいいから、思ったことは口にだせ、という躾を受けたのであろう。私は弟の方も歌を別にすれば、坊っちゃん臭くて苦手である。

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一日  


朝酔っ払ったKさんに起される。昼食を付き合って、という。さっきまで一緒にいたような気がするのだが?ここのところ喜んだり落ち込んだり激しいが、すべて自分が蒔いた種である。しかし平均すると嬉しいことが多いようで、ここ4日ほどは着替えた形跡もなく、飲みっぱなしである。嬉しい時の口癖、もう死んでもいい。を連発。死ぬのはかまわないけど生き返らないでね?などといっているとお兄さんから電話。開口一番「生きてるか?」。昨晩からの続きで、同じことを延々繰り返しているので、ちょっとは聞かされる側の身になってよ。といってもまあ無理であろう。これほどボキャブラリーの乏しい人も珍しい。喋り足りないKさんを残し喫茶店へ。
雑誌の取材。三島由紀夫へのオマージュ『男の死』について。ライターの方が同い年で、70年当時、同じように事件報道を見ていたわけである。私はというと『からっ風野郎』と百科事典のボデイビルの項の上半身裸の写真のおかげで読むのが遅れた。事件は単に有名人の猟奇的事件としか感じなかった。
主役の妖怪はそろそろ仕上げにかかる。

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