明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



それにしても自粛である。私は縁がなさ過ぎて、生まれて初めて発音したのではないか?自粛なんて言葉が辞書に載っていたなら、これほどの親不孝にならず、まして三島の次は寒山拾得だ、などと口走ることもなかったろう。そう思うと、そんな物が載っていなくて良かった。その代わり、個展に来るようにいったのはの毎日ふげん社の前を自転車で通勤の友人だけであり、すでに3回来た。そんなことはともかく。 寒山拾得は最初の森鴎外で読んだが、実に奇妙な話である。何をいっているのか私には良く解らないが、何故か気になる。私の経験によると、頭で理解できているようなことやモノはおおよそ作品として手掛けるに値しない。頭はかしげながら、ヘソ下三寸辺りは反応している。そんなモチーフこそが良い。 寒山拾得が書いたとされる寒山拾得詩なるものがあり、以前、たまにページをめくっていたのだが、引っ越しの際に持って来そびれた。勿論漢文なんて読めないので翻訳だが。寒山拾得は、絵画その他、星の数ほど残されており、親しまれたモチーフであることがわかる。だがしかし、調子に乗って己の解釈を加え、これが私の寒山拾得だ、なんていうのは危険である。むしろ能面師の面打ちの如き謙虚に対するべきであろう。まずは人形作って写真に撮る、という手法を用いるだけで、先ずは上出来とする、ぐらいの心持ちで望むべきではないか。あの意味あり気に薄ら笑う不気味な2人組には油断は禁物という気だけはする。




6/7まで会期延長。



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昭和残侠伝唐獅子牡丹の三島は、私を作った後、誰を作ろうというんだ?と私に言っている。確かに魅死魔幽鬼夫の後は、もう人に非ずなものを手掛けるしかないのではないか?となるとやはり寒山拾得だろうか。なぜ寒山拾得か、というと実は良く判らない。これは毎度のことであり、制作しているうちにわかってきて、その暁に、始めから計画的に考えて作りました。という顔をする寸法である。これは陰影をなくす手法も、今でこそ始めから計画通り、みたいな顔をしているが。ブログを読んだ人以外にはバレない。 そういえは、谷中の全生庵で、三遊亭圓朝旧蔵の幽霊画とともに圓朝像を展示した時、全生庵が、中国寒山寺と同じ臨済宗の禅寺と知り、来た!と思わずいずれ寒山拾得を作ります!と玄関先で口走っていた。 こうやって常に行き先も見えぬまま、行き当たりばったりただ衝動に従い、毛細血管が匍匐全身をするかのように、少しづつ変化していく私である。諦めの悪い私も手法としては石塚式ピクトリアリズムこと大リーグボール3号が最後であろう。常々思うが人生とは、夏休みのバイトの如く、慣れた頃に夏休みは終わるのであろう。夏休みが終わるまで、投げられるだけ投げておきたい。









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先日のトークショーでも話したが、写真の素人だった私が、野島康三に一目惚れ、神田の古書街に通いつめ、廃れた写真の古典技法にオイルプリントに血道を上げた。それは発表する気もなく、ただやりたかっただけなので、ようやく画が出た時点で止めた。本業を放り出し、ハラハラしながらやっていたからである。その後、自分の作品を撮るようになり、それならあのオイルで、とやったのが、一日だけの個展が1999年、そして正式に2000年。その後、ニジンスキー、コクトー、ディアギレフなんてモチーフで。私は幼児の頃から読んでいた偉人伝の類で、人のやらないことをやる人が偉い、と洗脳され騙されていた。それは狩猟民族ならともかく日本という農耕社会には当てはまらず変人扱いである。なのでデジタルの反作用で古典技法が花盛りになり、今なら安全と再開した。案の定である。 私は永らく、あの時オイルプリントにハマったのは、最後に今までの作品をオイル化して残すためだったのだ、と解釈、最晩年そうしていくのだろう、と考えていたが、そこへまさかの石塚式ピクトリアリズムの新手法。私の大リーグボール3号である。そして当ブログでも何度となく書いたが、自分で編み出した手法は、妙に自分の性格、その他にマッチしているものだな、と一人感心していた。たいした機材も必要なく、ただ陰影を出さないように撮影し、切り抜いて配するだけで、山賊体質の私にあっており、技術的に簡単な分、想いをダイレクトに炸裂させることができ、ようやく私なりの念写が実現した。先日もブログで、その簡単さ、が私にしてはかっこいいなどと自画自賛したばかりである。飯沢耕太郎さんにもトークショーのおり、オイルプリントはもうやらないのか、と聞かれた。確かにこのままでは、あの悪戦苦闘の歴史が無駄になる。ところがトークショーの翌日、突然気がついてしまった。あの経験は今に至る布石であり、石塚ピクトリアリズムとは無関係のようでいて自分に向いた手法に至るために間接的に作用を及ぼしていたのだ、と気がついた。これは衝動に任せてやってきたゆえであり、人間も自然物、草木同様、頭など使わず任せていれば間違いないがないことが証明された。という訳で、コロナ騒動の中決行されている椿説男の死は私の現時点での最高到達点である。

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三島自決直後に出た数々の週刊誌の特集号を見ると、インタビューや寄稿文などトンチンカンなことをいってる連中を散見する。その激震が収まっていないところにニの矢となって放たれるはずだったのが薔薇十字社刊の男の死だったろう。世間は自分に対して勝手な解釈をしていやがる、ザマァミヤガレ、と想像して喜んでいただろう。ついこの間、憲法改正だ天皇陛下バンザイ、といっていた人物が魚をぶちまけ、腹に包丁が刺さって一心太助みたいに死んでいる姿を世間は目にするはずであった。 東大全共闘との対話は、いつか観ようとでかけたら土曜日の自粛で観られなかった。私としては実をいうと学生との対話内容など爪の先ほども興味はなく、若い東大生に囲まれ、仮に襲われてリンチにあって死んでも、それはそれで有りだな、と目を輝かせ嬉しそうにしている三島の顔を観察するのが目的であった。ようするにそんな人間がコロナ騒動の中、珍説男の死を開催しているのであった。









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三島がドナルドキーンに宛てた最後の手紙に私もとうとう魅死魔幽鬼夫になりました。と書かれてあったそうだが、仮面の告白に書かれた、幼い時三島が好きだった絵本、王子が竜に噛み砕かれ苦しみながら死ぬ描写。しかしその度生き返るのか気に食わず、その部分を隠して読んだ。幼くしてすでに魅死魔である。 たまたまその文才のために小説家として生きたが、極端に言ってしまうと、それ以外のこと全てが、死に行くためのお膳立て、彩りに過ぎず、それこそが仮面ではなかったか。一般的にその仮面の部分だけが論じられているように私には思える。仮面部分にはまったく興味がないので一切触れず、三島の作品という衣を着せて魅死魔幽鬼夫を描いて見た、というのが今回の椿説男の死である。 死ぬ直前のインタビューで、自民党には利用されない、見ていて下さい。といっているが、あの手この手、あらゆる手段を講じてあらゆる人達を利用し、自分のシナリオ通りに魅死魔を全うし、大満足で死んでいった希代の人物。というのが私の印象である。某雑誌創刊号に掲載された生首は、まるで温泉に浸かって大満足の表情である。 薔薇十字社版男の死で好みのガテン系人物に扮し、死んでいる所を撮らせていたことを知ったとき、私がビンゴ!と小躍りしたのは、私の見立が正解だと思ったからで。仮面を脱いで最後の最後ににやりたかったのは魚屋やヤクザや兵隊に扮して死んでみることであった。そこには天皇も憲法改正もない。あんな嬉しそうな三島は見たことがない、と編集者はいった。 しまいに自衛隊員は、説得は通じない、もはやこれまで。と断念し割腹、という悲劇の花道の演出にヤジをもって利用されている。あの時肝心の先鋭部隊は富士の訓練で不在であった。調査ミスといわれているが果たしてそうだろうか。用意周到な三島である。訓練を共にし汗し、少なからず三島に共感を示した隊員がいた先鋭部隊である。一人立ち上がっていたら花道は台無しであったろう。

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飯沢耕太郎さんにお付き合い頂いたトークショーは無観客ということになった。長いのでダイジェスト版が作られるかもしれない。なんといっても成否を分けたのは、私が飯沢さんより大分後ろに下がって画面上の大きさのバランスをとったことであろう。 今回、ほとんど自粛している中、個展が決行されたことはつくづく良かった。あの時自粛なんてせず、三島で決行したんだぜ、と後々言いふらしたい。 私は昔からこんなことをしているのは地球上で私だけ、になりたかった。その孤独感だけが私を甘い真綿で包むような幸福感に浸すことができる。人と違うことをしたいなどというへそ曲がりレベルのものではなく、ただ胸に手を当てて、やりたいことをやっていたらただ一人になっていたでないとならない。ただし、そのくらい素晴らしいことを成したなどとは一言もいっていない。何しろバカバカしくて誰もやらない、というのは、私の主要な武器といって良い。大事なのは本心からやりたいことを追求していたら他に誰もいなかった。である。地球上には様々な人間がいる。なかなかそうはいかないものである。サンディエゴ写真美術館の館長デボラ・クラチコさんに作品を見ていただいた時、何か質問はと聞かれて唯一聞きたかったのは私のようなアプローチをする人は他にいますか?であった。ウ~ンとうなって紙片に書いてくれたのがシンディ・シャーマン。?つまりいないということであろう。飯沢さんからもいないと伺った。さらなる私の自負は、石塚式ピクトリアリズムは、陰影を出さない様に撮影して切り抜いて貼り付けるだけであり、簡単にも程がある、というところが、私にしてはカッコ良すぎる。



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長く続けてきてペース配分には自信があったのだか、よる年波か着地点がずれる。昨日できてたはずが明後日になったりする。北斎の画室に使おうと考えていた施設がコロナで閉館、大ネタと考えていた作品が一つ消えた。これで余裕ができてしまった。こんなことは初めてだ、と思っていたら搬入の前日から徹夜である。休憩するつもりが目をつぶっていた。明らかに私の一部が私を裏切り熟睡しようとしていた。塗り残しも散見する。 それはともかく会場で作品を眺めると、新作が一番だな、と思えるのは何よりである。ただ目が慣れていないので新鮮に見えてる可能性はなくはないが。最初期の陶製の黒人人形の持つギターは勿論、弦は張っていないし、サウンドホールさえない有様で、それでも40年近く変化を続けてきたが、こんなに時間がかかると知っていたらやる訳がない。続けて来られたのは、新作が一番いいと思い込めたせいだろう。昨日より今日が良い、世界がどうあろうと、目の前のものが昨日より良いと思い込めたことが何よりであった。おかげで続けられた。初期の黒人シリーズが良かった、合成などせず、手持ちで撮影していた作家シリーズが良かった、という意見もいただくが、作者とすれば最新作が一番と思えなくなったらお終いである。そういう意味でいえば、様々ご意見はあろうが、只今ふげん社には、毛細血管が匍匐前進するよう変化してきた、私の人生上の最突端が展示されているはずである。会期はさらに延長の予定である。









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人形4体と出来立てのプリント松尾芭蕉を持っていく。お馴染みの風景だが会場でドリルで穴を開けたりまだやる。それにしても完徹がこたえるようになった。色を塗り一休み。ゴロリと横になる。お前寝ようとしてるだろ?色を塗らないまま始まってしまう恐怖を想像し耐える。結果塗り残しなどあるが、これを被写体にしました、ということで、その辺りはおいおい。 それにしてもこの時期に何故、と方々からいわれたが、確かにDMを送る相手も施設もない、というあるまじき有様である。しかし仮にお日柄も良い秋頃に延期になったとしよう。状況が好転していたとしても、私自身が変わってしまっている。珍説弓張月で、こんなことまで可能だと私は知ってしまった。三島を成仏させた私はもう別のことを考えているだろう。 前回男の死をやる際に2ヶ所に断られている。理由はいずれも右翼が怖い、であった。その点、前回も今回も女性オーナーである。一言もそんなセリフは出ない。そもそも死の直前、右翼今に見ていろ、と三島はいっている。私にいわせれば三島は右翼調に見えるだけである。とにもかくにも最大の後ろ盾は、死ぬ寸前に、魚をぶちまけ包丁を腹に刺して死んでる魚屋に扮した三島本人である。今回延期にしなかったのは自粛、自粛が嫌だった、と伺った。決行といえば三島。それをモチーフの展覧、しかも作者が感心されるくらいなら呆れられた方がマシなんてヌカしている。確かに自粛は似合わない。詳しくは明日発表されるだろうが、延期でなく延長が決まった。 毎日ふげん社の前を自転車で通る友人とちょっとだけ飲んで帰る。電車内は昨日までのように距離を保ちようがなく。当たり前である、みんなそれぞれやるべき仕事がある。

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朝、明日個展初日というタイミングでこんなことがあるのか、ということが起きる。お天道様みたいな客観的な存在に、からかわれてるとしか思えない。貧乏神の存在はすで確認済みであるが。そんな時にも拾う神が現れる。 小学生の時当校中、すんでのところで車に轢かれそうになった。間一髪。長患いだろうと事故だろうと死にそうになったことには変わりがない。しかし学校でその話をしたところで、それがどうした、という程度のことである。これからこんなことは何十回となく起きるだろう。そう思うと生きて行くのは大変なんだな、と少々うんざりした小学生の私であった。そう思うと、なんとかここまで生きている。轢かれそうになることも数えるほどしかなく。 今回の個展はとんだことになったが、いつだったか、この個展をやるためにはそれまで交通事故に気をつけ、クリニックにはサボらず通おう、と書いたが、やはり長期的な展望など抱かず、せいぜい一年後まで考え、なんとかこなす。というのが、目標に至らない無念をできるだけ味合わずに達成感をできるだけ味わうには最善の策だな、と改めて思った。 個展というのは、こんなことをしでかしてしまった、と眺めながら、次にしでかす、ここに無いものを想うには絶好の機会である。仮にこの個展が延期になったとして、その時はすでに何か始めているだろう。 プリンターの田村さんに直接会場に送付してもらってまだ見ていない作品が結構あり、明日はせいぜい出来立ての立ち上る湯気にむせたい。 







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芭蕉をに着彩。先日、こんな色を塗ろうと、滑り込みで絵具を買いに行ったが結局使わず。陰影をなくす手法は、先に背景を用意し、そこに個々に撮影したものを配するのだが、この背景というより下地と合わなくなってしまった。楽譜がないアドリブである…仕方がない。その代わり主役の撮影は撮る向きは決まっているから迷うことなく、たまに上下左右、数度動かしてみる程度である。どうせ切り抜くのであるから画面が傾いていても問題はない。 昨日、パンフレットとは別に壁に掲げるキャプションをふげん社に送信した。配られるパンフレットを見ながらごく簡単なキャプションを読んでもらおうということである。会場でのこれは何ですか?という空気は慣れっこではあるものの、今回はさすがに飾りっぱなしでは不親切であろう。緊急事態期間と会期がまるかぶりである。正直いうと、絶対来いよ、と声をかけられたのは、毎日自転車でふげん社の前を通り自分の工房に通う友人だけである。三島だけに決行が似合う、といったものの、確かにモチーフが例えば室生犀星だった場合とはやはり心持ちが違う。よりによって三島とは。これは何かの縁だろうと、思う。一つ間違いないのは、この機会がなかったら生まれなかった作品があることである。寺山は正確ではないが、フットボールを観た後は赤い色が違って見えるとかいった。ちょっとしたことで作品が一変してしまうから、私は作りかけの首をポケットに、外出先で度々確認する。気が気でない。良いが悪いかは別にして、今だからこその作品がある。 飯沢耕太郎さんにお付き合いいただくトークショーは無観客で、ということになったが。つい最近気がついたが、普段見ているユーチューブと違って編集はない訳である。うっかりしたことは言えないということである。
https://youtu.be/eiGxJ6OXJxQ



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江東区芭蕉記念館のある森下駅を歩いていたら、芭蕉いろいろとかいう、芭蕉の肖像画のパネルが20枚ほどズラリと並んでいた。これがまた見事なくらい、門弟の描いた肖像画が反映されていない。またわざと門弟達の作品を外したとしか考えられない。理由は判らないが、俳句の枯れたイメージのためなのか、どうしても青林堂の創業者みたいな人物だと思い込ませたいらしい。一体目の芭蕉像が記念館に収蔵された時、門弟の肖像のみを参考に制作、と掲げるようにいったのだが。ちゃんとやってくれているだろうか。多勢に部勢、私の芭蕉はイメージが違うといわれている。そもそも私より年下なのに、と半分腹を立てて作った。全国を歩き回り、還暦前に死んでいる人物である。少なくとも2体目はそれを掲げることを条件にしよう。 葛飾北斎の新作の撮影場所が、コロナで閉鎖。画室で海女と蛸の絡みを凝視する画狂老人を考えていて、そのために前のめりにしていただけに残念である。写真というものは、無いものは撮ってはいけないことになっている。ただ考えてみたら、蛸と絡んだ北斎。数百メートルの大女のヌードにすでにタコは登場している。多すぎであった。円谷英二ではないがタコを使うのは面白い。撮影後食べて美味しいし。 今後随時、今まで作ってきた人物を陰影のない石塚式ピクトリアリズムで新たに撮り直して行くつもりであるが、寺山修司もまだである。寺山と永井荷風はどんな街に持っていっても絵になる双璧である。ところが寺山は何かやってもらおうとすると何もやってくれない。正確にいうと突っ立っている以外、やってもらうことを思いつかないのである。本人はどんな鳥も想像力より高くは飛べないだろうと言っていたのだが。またいずれ。

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ゴールデンウイーク前に、人形、キャプション以外はすでに会場に整然と並んでいる。そうするには私は初個展から展示には関わらない。何をして良いか判らないのである。そのプリントも、オーディオと一緒で入口と出口が肝心。音の出口はすべて盟友プリンター田村正実氏というスピーカーを通している。 今回は正面奥に、2メートル超の燃える金閣寺にヤクザな三島が日本刀とピストルをかまえている。これは“感心されるくらいなら呆れられた方がマシ”あるいは“及ばざるくらいなら過ぎたる方がマシ”という私の2大モットーが具現化されている。 そもそも三島由紀夫という人は生前常に積極的に呆れられ続け、そしてやり過ぎていった人物である。映画憂国の撮影ではもっと血を!と要求。その切腹シーン用には豚の臓物を使ったが、スタジオ内に異様な臭気が立ち込める。そこへ三島はあろうことか香水を降りかけてしまう。普通そんなことをすればどんなことになるか判りそうなものだが、普通でない三島には判らない。そんな所も私は愛おしいのである。 藤原龍一郎さんが寺山修司と虫明亜呂無の競馬本を紹介されており帯には「もう一度逸脱せよ、愚行であろうとも。」という痺れるコピーが書かれている。三島はいった。「今犬死が必要なことを見せつけてやる!」





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ようやくマスク届く。かつての東京の下水整備のように高い所から低い所へか、とひがむところであった。なるほど、私には眼帯にちょうど良さそうなサイズである。 日光が良いとかいうこともあり葛飾北斎、松尾芭蕉のペーパーがけを、ベランダにパイプ椅子を出して行う。北斎は今回は撮影を行わないが、芭蕉は色さえ塗れば撮影はすぐに可能である。しかも良かれと思い、リアルな風合いを出そうと、肌の部分は重ね塗りしていたが、陰影を出さずに撮影する石塚式ピクトリアリズム、絵画主義写真はそれがかえって汚れムラのようになって使えない。ただ一色をベタ塗りする。つくづく思うのだが、自分で考え出したことは、自分に都合よく出来ているというか、ズボラな私に都合よく出来ているというのは偶然なのだろうか。お天道様は見てくれている。そう思うと同じピクトリアリズムのオイルプリントなど、よその人が考えただけあり面倒であった。個人的には技術は簡単な方が良いと考える。センス勝負になるからである。オイルプリントも大分ハードルを低くできた。ワークショップで始めて制作したオイルプリントを個展に出品し、しかも売れてしまった人がいて、開いた口ふさがらず。 今から2、30年前、ライアル・ワトソンが流行ったころだろうか、昆虫などの擬態というのはウィルスが引き起こしている、という説を耳にした覚えがある。擬態は、確かに客観的な存在、お天道様みたいな物が在りそうではある。 ベランダでペーパーがけをしていて、北斎と芭蕉は私の作品の中では大きめである。たすきがけして腕を出してる北斎に下膨れの芭蕉は無理だが、芭蕉の身体に北斎の頭はフィットした。使わない手はない。蛸と絡んだ海女の股ぐらを覗き込んでスケッチしていない時の北斎。 私がルールブックである。





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