◆内陸直下型地震が近畿東海北陸を蹂躙
太閤豊臣秀吉が伏見城、大阪城を築くとき、造営を担う普請へ念を押した文書へ“耐震構造に充分配慮せよ”、というものがありました。
豊臣秀吉が記したことで歴史に残る耐震構造ですが、何が天下人をそうさせたのか、その背景に、秀吉の時代に日本海側と太平洋側同時に津波被害を及ぼした巨大地震が日本を襲っていた、という話、皆様信じることが出来るでしょうか。歴史地震として、戦国時代の末期、非常に国内が混乱していた時代にて資料は残りにくいものですが、内陸直下型地震として、想像を絶する規模の巨大地震が発生していたことが記録されています。歴史地震への備え、日本はもちろん周辺の安全保障情勢に痛撃を与える危険性を持つ八重山地震を前回までに紹介しましたが、日本本土で過去実際に発生した恐るべき地震の概要を紹介しましょう。
1586年11月29日時2200時頃、それは日本列島本州中央部を震源として発生しました。天正地震、歴史では行使されていますが、内陸直下型地震であったため、被災地毎にその被災地を震央と考え、湖北では長浜大地震、北陸では白山大地震、河内では木舟大地震、東海地方では天酉地震、とそれぞれ命名されています。どれが正しいかと問われれば回答に困りますが、北陸地方、近畿地方、東海地方、この伊勢湾から若狭湾までの数多くの直下型地震を引き起こす活断層の一つの揺れが引き金と成り、本州最峡部を縦断する巨大地震が発生したのでした。
天正地震は、震源地として現在の岐阜県飛騨市、福井県との県境近くが有力説とされており、庄川断層、阿寺断層、養老断層、伊勢湾断層が一つの自信により誘発され、巨大地震となりました。丁度、富山湾と若狭湾に伊勢湾と大阪湾を結ぶ巨大な菱形の域内が、震度五強から七という巨大地震に襲われ、直後、伊勢湾沿岸と若狭湾沿岸を津波が襲ったほか、山岳崩壊により琵琶湖でも津波が発生しました。地震の揺れは遠く静岡県や和歌山県でも記録され、特に低層建築物に破滅的な被害を及ぼす小刻みな揺れを特徴とする直下型地震の被害は、計り知れません。
城郭の被害だけでも記録されているものは、飛騨の帰雲城、現在の白川郷を見下ろす高台にあった城郭が山岳崩壊と地滑りにより全滅し城主内ヶ島一族は全員死亡するとともに領内の多くの集落が山岳崩壊により文字通り押し寄せた山体の下敷きとなり物理的に消滅、更に領内の焼岳が地震後に大噴火を引き起こし、農業が火山灰により壊滅的被害を受けたため、地形上復興が難しく、21世紀の今日に至るも往時の勢いを取り戻すことが出来ませんでした。郡上、飛騨のすぐ南に或る郡上では鉱山と周辺集落が倒壊し長良川をせき止め、その後の被害を増大させています。
東海地方の地震被害は、美濃大垣城が地震後に発生した城下町の火災により全焼、織田信長が天下布武の旗印を掲げた尾張清州城も液状化の被害を受け信長の二男織田信雄はのちに城主としてその再興に東奔西走することとなります。して、織田信雄が当時城主を務めていた伊勢長島城は天守閣が倒壊、この伊勢長島城は天正地震による天守閣倒壊後も天守閣は再建されず、江戸時代に長島藩庁を経て今にその遺構を残します。なお、織田信雄が液状化被害を受けた清州城へ移ったのは、長島城の天守閣倒壊によるもので、まだ被害が少なかった清州城へ移った、というところが実態という説もあり、被害の大きさが覗えるところ。
この地震被害は、発生が震源地から遠い岡崎城で徳川家康の家臣、松平家忠の日記である家忠日記に刻銘に記録され、発生時刻が2200時頃であること、その四時間後に大きな余震があり、続いて12日間に渡り、余震が続いていたとの記録があります。驚くべきことは、地震発生時刻に関する文献が震源から遠く離れた三河地方に残っていることで、これよりも震源に近い地域では地震とそれに付随する様々な被害、記録が残らないほどの被害に極度の混乱に陥っていた事をして示しているでしょう。
近江地方では、琵琶湖沿岸では湖北地方の山岳崩壊が雪崩込んだことに起因する津波の発生が記録され、山内一豊の居城である長浜城は天守閣から石垣まで全壊、山内一豊は難を逃れたものの、長女与祢姫が庇う乳母ごと城郭に押し潰されその短い生涯を閉じました。同時に山内一豊は織田信長に播磨三木城攻めを命じられてからの部下で家老の乾和信をこの地震被害で失っており、湖畔の城郭を押し潰した揺れは城下町である現在の長浜市内を液状化により湖畔が水没し、潰滅させています。この被害の様子は一豊公記にも記され、今にその様子を伝えています。
京都は、この地震では直下型地震であったため震源地からの距離もあり、大きな被害免れたのですが、東寺が当時我が国最高層建築物であた五重塔こそ無事だったものの講堂が半壊し、三十三間堂では仏像の大半が倒れました。日が居こそ京都全体では大きくなかったものの、応仁の乱からの復興過程にあった京都にはやはり影響は小さくありません。逆に言えば、現在の京都中心部は豊臣秀吉と徳川家康の治世下で復興したもので、特に家康の復興への尽力に感謝したことで始まったのが、今では京都三大祭に数えられる葵祭の始まりであったことを記すと、分かりやすいでしょうか。
北陸地方では前田利家が地震被害により弟の前田秀継を亡くしています。加賀百万石と今日では伝わる前田家も、当時は倶利伽羅峠を境界線として佐々成政との間での最前線に位置し、地震前年に末森城の戦いで佐々成政の圧力を退け、地震の僅か三か月前、豊臣秀吉の10万の兵力を以ての佐々成政討伐を果たし、越中平定を経て前田利家は越中を拝領し、金沢城を築きます。そして前田秀継は木舟城主を命じられ、安泰を迎えたその直後、地震により城郭が全壊し、妻子部下共々城と運命を共にしました。
津波被害は、諸説あり、敦賀市の地質調査では大きくなかったとの評価もありますが、伊勢湾沿岸と若狭湾沿岸を襲い、伊勢湾沿岸は現在でこそ名古屋市と共に干拓され、一面の濃尾平野が広がっていますが、当時は濃尾平野が島嶼部により構成された多くの入り江で成り立っており、ここが地震により地盤沈下し、逃げ場を失ったところに津波が襲い、幾つかの島は文字通り全滅し、近年まで記録さえも散逸したものが地学調査により発見されたという被害がありました。若狭湾では現在の小浜市と美浜町に福井市や宮津市周辺の被害が大きく、これは当時日本にいた宣教師ルイスフロイスのフロイス日本史やイエズス会日本書翰集により被害の様子が記録されています。
日本が歴史上経験した最大の内陸地震は岐阜県を震源とした1891年10月28日の濃尾地震とされています。最大震度6ですが、当時は震度7が制定されておらず、人口密度の低い地域であったのですが犠牲者は7273名でした。しかし、天正地震は直下型地震であったものの震源分布はさらに大きく、濃尾地震のマグニチュード8.0に対し、天正地震は情報が散逸しているため震度から被害状況を類推するほかないのですが、マグニチュード7前後という説もある一方で、マグニチュード8.1乃至マグニチュード8.2、 という研究があります。ただ、混乱の時代であったため、残された被害状況などの資料は多くはありません。
こうして豊臣秀吉は、自らの経験に深く印象づいた天正地震を前に、多くの天守閣が倒壊し、日本海側と太平洋側に津波が押し寄せるという未曽有の経験から、自らが新しく城郭を造営する際、特に耐震性というものを強く意識したわけでした。場合によっては日本史を左右していたかもしれない巨大地震、歴史地震として今日、多くの資料が戦国時代の残りにくい時代を経て朧げな概要のみを示しており、まだまだ研究の余地が残るものではありますが、歴史は我々に警告を残しているといえるでしょう。次回は、この天正地震をもう少し考えてみたいと思います。
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