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【京都幕間旅情】墨染寺(貞観寺旧蹟寺院),荘園の栄華散りて花のこる桜寺と深草山に桜花の香

2019-03-27 20:11:38 | 写真
■桜だけが伝える平安朝の栄華
 京阪本線墨染駅の改札から西へ向かい少しだけ歩みを進めますと、桜寺という春を感じる名の小さな寺院があります。

 墨染寺、京都市伏見区の寺院です。京阪本線墨染駅がありますので、この界隈に由来があるとは考えていましたが、実は大学時代からのこの近辺の友人が仕事で伊丹に、伊丹市にも墨染寺があったよ、とのお便りがあった。そこで、そうだ京都の墨染寺へいこう、と。

 京阪8000系の写真もついでに一寸の余暇を愉しむつもりでしたが、深草界隈の風情は散策すると深みが良い。墨染寺は京阪墨染駅の近くにありました、ただ、墨染駅は“すみぞめえき”ですが墨染寺は“ぼくせんじ”と読む、活字やメールでは伝わらない読み方ですね。

 深草山墨染寺、山号を深草山とする日蓮宗の寺院です。深草はこの界隈の地名ですが、地名として深草は“ふかくさ”と読みますが深草山は“じんそうざん”という。歴史は深く、あの貞観年間874年に建立されました。もともとは貞観寺といい墨染寺は旧蹟寺院という。

 貞観年間といえば、東日本大震災を引き起こした東北地方太平洋沖地震と同規模の巨大地震である貞観三陸地震マグニチュード9巨大地震があり、古富士噴火として知られる地質学上の富士山最大規模の巨大噴火である貞観富士噴火があった、まさに災厄の年間でした。

 貞観寺の旧蹟寺院である墨染寺、故にその規模は墨染桜の木々に本堂に墓所と限られるのですけれども、貞観寺そのものが嘉祥寺西院として建立された真言宗寺院でした。嘉祥寺は仁寿年間852年に、この深草の地一帯を荘園としていまして、末寺を建立し更に広げた。

 嘉祥寺は、もともと仁明天皇崩御にともなう陵墓として建立された経緯がありまして荘園を広げてゆきますが、末寺としての墨染寺は時の太政大臣藤原基経が寛平年間891年に病没した際の墓所となった事で崇敬を集める。貞観寺の数少ない旧蹟となったのはこのため。

 上野峯雄、平安時代の歌人で藤原基経のあった峯雄は、“深草の-野辺の桜し心あらば-今年ばかりは-墨染に咲け”と基経の旅立ちを悲しんだところ、この地に薄墨のような桜花が咲いた事に気付き、この地を“墨染”と称したとの由来が、千年以上前の891年の事でした。

 桜寺、と愛称されるようになった墨染寺ですが、対して本山貞観寺は普明院や法勝院と子院を広げ荘園も深草一円のみならず亀岡に岐阜の大垣や静岡の浜松へと広げてゆきます。これは生前に藤原基経が清和天皇護持へ嘉祥寺を掲げた為の誤った威光の拡張といえます。

 清和天皇護持を掲げ荘園を際限なく広げた嘉祥寺は、当たり前ですが清和天皇崩御と共に急速に勢力を失い、東寺の末寺へ、貞観寺領も平安朝末期には有名無実化し、寺そのものの記録も応仁の単を最後に消えてゆく。桜寺と愛称されるようになった墨染寺だけが、残った形ですね。

 日秀尼、この墨染寺が歴史の表舞台に帰るのは豊臣秀吉の姉である瑞龍院妙慧日秀尼が帰依した事で転機を迎えます。墨染寺は豊臣秀吉の伏見城からも指呼の距離にあり、荒れ寺とはなっていましたが、日秀尼は秀吉はじめ多くの寄進を募り、寺院を再興したと伝わる。

 墨染櫻寺、歴史上墨染寺は嘉祥寺西院貞観寺深草旧蹟という位置づけであり、桜寺とは愛称でしたが、豊臣秀吉の治世下で墨染櫻寺という名が定着したわけですね。日秀尼により再興された墨染櫻寺は、伝教大師の子安愛嬌鬼子母神像を本尊とし、崇敬を集めています。

 桜寺、という名を前に豪華絢爛桜花満開を期待し荘厳な寺院を探したならば実のところ拍子抜けするかもしれません。しかし、毎年この地で開かれる桜祭りでは等身より大きな子安愛嬌鬼子母神像が御開帳となり、京都には静かな、桜花の饗宴が拝観者を迎えています。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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