北大路機関

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【京都発幕間旅情】戦艦榛名-難波八幡神社,護衛艦はるな除籍10周年と戦艦マスト海軍遺構

2019-03-20 20:02:48 | 旅行記
■今も残る戦艦榛名後部マスト
 2019年は初のヘリコプター搭載護衛艦はるな除籍から10周年となります、しかし先代にあたる戦艦榛名の遺構が実は今日も現存しているのは御存じでしょうか。

 難波八幡神社、尼崎市東難波町に鎮座する神社です。尼崎は尼崎市人口45万名と大阪市に隣接する兵庫県の都市ですが、その地名の通り古くからの良港に恵まれ、そして猪名川と神崎川が大阪湾に至る河口の地形は紀元前より稲作の遺構が残る歴史を湛えた街です。

 仁徳天皇治世下の四世紀まで創建は遡るとされ、創建当時は現在の尼崎市扶桑町に鎮座していたとのことですが、安土桃山時代に現在の東難波町へと遷座したとされます。幸いにして神社は第二次世界大戦中の尼崎空襲からも戦災を免れ、江戸時代中期の建物が残る。

 池田山古墳が創建当初の頃に造営されており、尼崎市内にはこの古墳に五世紀の御園古墳と伊居太古墳などから成る塚口古墳群があり、歴史の深さを示していますが、難波八幡神社にはこれに加え海軍遺構として戦艦榛名後檣の一部が難波八幡神社に残されています。

 榛名、戦艦榛名は1915年に竣工した巡洋戦艦で金剛型巡洋戦艦の三番艦、初めて民間の川崎造船所、現在の川崎重工で建造された主力艦です。第一次世界大戦へ参加、戦後は装甲を強化し巡洋戦艦から戦艦に改修され、高速戦艦として第二次世界大戦を戦い抜きました。

 1924年に巡洋戦艦から戦艦への第一次近代化改装実施され、35.6cm45口径連装砲4基はそのまま、機関部を更新すると共に上部構造物を城郭型檣楼へと強化し、重厚な艦容を備えるに至ります。しかし、防御力強化により船体の重量が増大し最高速力は落ちてしまう。

 1933年に第二次近代化改装が行われ、機関出力を向上させ最高速力を25ノットから30ノットへと強化、これにより金剛型戦艦は日本海軍最速の戦艦群となった事で、航空母艦直衛等に活躍します。この際に後檣は取り替えられたのですが、その尖塔が難波八幡神社に。

 神戸川崎造船所において建造された戦艦榛名は、ここ兵庫県と縁があると共に尼崎には川崎航空機工場があり、軍需産業も市の一翼を担っていましたが、榛名マストが維持される背景には大正時代に退役中将が興した青年団体“大日本国光宣揚会”の要望がありました。

 第一次近代化改装に際し取り外されたマストは廃品予定を一転し民間団体に無償下付されることとなり、当初、武庫川近くの大日本国光宣揚会道場庭園に国旗掲揚塔としてされました。しかし、太平洋戦争敗戦と共に大日本国光宣揚会は解散し、跡地には市民病院が。

 太平洋戦争にてマレー方面作戦では三川艦隊の一員として。インド洋作戦ではインド洋イギリス艦隊を一掃。ミッドウェー海戦では南雲艦隊の赤城、加賀、蒼龍、飛龍の直衛任務として。ガダルカナル攻防戦では同型艦比叡、霧島戦没も米軍飛行場を艦砲射撃しました。

 日本海軍最後の艦隊決戦となったレイテ沖海戦へも榛名は主力部隊である栗田艦隊へ戦艦大和、武蔵、長門、と共に参戦、四度に亘る米空母部隊の集中攻撃を突破するもフィリピン突入を断念、しかしその後一旦南方の泊地へ戻るも空母隼鷹と共に呉へ帰港出来ました。

 呉軍港へ戻った榛名は一月後に戦艦大和を撃沈するミッチャー中将第58任務部隊の攻撃を受けつつも損傷は軽微でしたが本土決戦間近となり既に戦艦を動かす燃料も無く、江田島小用海岸に予備艦として洋上防空砲台に転じられ七月の呉空襲により遂に大破してしまう。

 戦艦榛名は、しかし大破により全損を免れ終戦を迎えました。そして尼崎のマストも尼崎空襲を免れ、戦後は難波八幡神社へ移され今に至ります。戦後七十年、神社には江戸時代中期の本殿や弊殿と拝殿があり、地蔵尊と稲荷社との三社相殿が広く崇敬を集めています。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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