■白鳳年間の社殿
神社の歴史は思いのほか古いのです。それは日本の神社とは定期的に建物を普請するために一見しての歴史と社殿を支えた歴史とは長さが同じわけではなく実際遡る歴史はながい。

貴船神社は絵馬発祥の地という。実際隣が鞍馬山というくらいですから馬と所縁あった地域であることは確かなのですが、本殿には祭神の高龗神とともに馬の像が安置されていまして、像のところには此処が絵馬発祥の地であることを示しています。

玉依姫命の伝説は前に記しましたが、この貴船という地名はもう一つ、鴨川の源流、この源流というのは鴨川が京都を流れるという印象を持つ場合と、此処からやがて大阪平野に流れ出る大河の源流の一つ、という認識で見た場合とで印象が変わるものですけれども。

気の産まれる根源、気とはなにか古代的な神秘の重きがあった時代の語韻なのですが実際子だの認識なので問題は無い、そこから転じて貴船のもとが、気生根、に通じたともいわれているようです。伝説は兎も角、奈良時代には既に社殿が知られていたこととなる。

白鳳6年こと西暦666年に社殿建て替えの記録があるのです。もっとも白鳳年間は天武天皇13年こと西暦684年に最古の南海トラフ巨大地震記録という白鳳地震が発生していますが。この地震は四国と紀伊半島を中心に静岡まで大被害があったという歴史地震でした。

白鳳地震が貴船神社にどのような影響を及ぼしたのかは記録がないのですが、ただ、社殿建て替えが老朽化であったようですので、そのわずか十数年後に日本を襲った巨大地震には無事だった模様、なお今の本殿は2007年に建て替えを終えた新しい社殿です。安心だ。

延暦15年こと西暦796年には鞍馬寺の方の由来と重なるのですけれども、東寺造営官であった藤原伊勢人がある日に貴船神社の夢のお告げがあり、鞍馬寺を建立することになった、という寺伝がありまして、寺院建立を思い立つほどに当時貴船は名が通っていた、と。

山城国愛宕郡貴布禰神、貴船神社の名前は通っていたもののその名が大社として位置づけられたのは弘仁9年こと西暦818年の政令であり、山城国愛宕郡貴布禰神として名神大社に列せられ、この施策は神社の神格を示す延喜式神名帳にも反映されたわけですね。

二十二社の制度が制定されますとそのまま下八社に列せられる。この二十二社制度とは国家天変地異の際などに国家存続や災害平癒などの加持祈祷を行う神社でして、伊勢神宮にはじまり最終的に二十五の神社がその地位に位置付けられたわけです。そして神社は。

永承元年こと西暦1046年、これはいまから千年近く前の話なのですが、残念なことに貴船川の大洪水により社殿が流失します。その際まで社殿は現在地よりももう少し上流にあったというのですが、天喜3年こと西暦1055年の再建で現在地となる。が、しかし。

賀茂別雷神社、要するに上賀茂神社なのですが、この天喜3年の再建に際し、実は社殿都心域の規模がかなり小さくなりまして、その際に貴船神社は賀茂別雷神社の摂社、という扱いになってしまいました、繰り返しますがこれは千年近く前のことなのですけれども。

貴船から上賀茂神社までは遠すぎるのではないか、こう思われるかもしれませんが現在の上賀茂神社はGHQの接収等をも含めてかなり規模が狭くなっていまして、当時は参拝客による収益ではなく、社領からの年貢などに依存し、実は隣り合っていたという事情はある。

賀茂別雷命も本殿に祀られていた時代が江戸時代まで続いていたというから驚きなのですが、ようやく明治時代に貴舩神社となり上賀茂神社からの距離を置く事ができた、安心だと。この美しい幻想的と言える雪景色の奥にそんな複雑な歴史を湛えているのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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神社の歴史は思いのほか古いのです。それは日本の神社とは定期的に建物を普請するために一見しての歴史と社殿を支えた歴史とは長さが同じわけではなく実際遡る歴史はながい。

貴船神社は絵馬発祥の地という。実際隣が鞍馬山というくらいですから馬と所縁あった地域であることは確かなのですが、本殿には祭神の高龗神とともに馬の像が安置されていまして、像のところには此処が絵馬発祥の地であることを示しています。

玉依姫命の伝説は前に記しましたが、この貴船という地名はもう一つ、鴨川の源流、この源流というのは鴨川が京都を流れるという印象を持つ場合と、此処からやがて大阪平野に流れ出る大河の源流の一つ、という認識で見た場合とで印象が変わるものですけれども。

気の産まれる根源、気とはなにか古代的な神秘の重きがあった時代の語韻なのですが実際子だの認識なので問題は無い、そこから転じて貴船のもとが、気生根、に通じたともいわれているようです。伝説は兎も角、奈良時代には既に社殿が知られていたこととなる。

白鳳6年こと西暦666年に社殿建て替えの記録があるのです。もっとも白鳳年間は天武天皇13年こと西暦684年に最古の南海トラフ巨大地震記録という白鳳地震が発生していますが。この地震は四国と紀伊半島を中心に静岡まで大被害があったという歴史地震でした。

白鳳地震が貴船神社にどのような影響を及ぼしたのかは記録がないのですが、ただ、社殿建て替えが老朽化であったようですので、そのわずか十数年後に日本を襲った巨大地震には無事だった模様、なお今の本殿は2007年に建て替えを終えた新しい社殿です。安心だ。

延暦15年こと西暦796年には鞍馬寺の方の由来と重なるのですけれども、東寺造営官であった藤原伊勢人がある日に貴船神社の夢のお告げがあり、鞍馬寺を建立することになった、という寺伝がありまして、寺院建立を思い立つほどに当時貴船は名が通っていた、と。

山城国愛宕郡貴布禰神、貴船神社の名前は通っていたもののその名が大社として位置づけられたのは弘仁9年こと西暦818年の政令であり、山城国愛宕郡貴布禰神として名神大社に列せられ、この施策は神社の神格を示す延喜式神名帳にも反映されたわけですね。

二十二社の制度が制定されますとそのまま下八社に列せられる。この二十二社制度とは国家天変地異の際などに国家存続や災害平癒などの加持祈祷を行う神社でして、伊勢神宮にはじまり最終的に二十五の神社がその地位に位置付けられたわけです。そして神社は。

永承元年こと西暦1046年、これはいまから千年近く前の話なのですが、残念なことに貴船川の大洪水により社殿が流失します。その際まで社殿は現在地よりももう少し上流にあったというのですが、天喜3年こと西暦1055年の再建で現在地となる。が、しかし。

賀茂別雷神社、要するに上賀茂神社なのですが、この天喜3年の再建に際し、実は社殿都心域の規模がかなり小さくなりまして、その際に貴船神社は賀茂別雷神社の摂社、という扱いになってしまいました、繰り返しますがこれは千年近く前のことなのですけれども。

貴船から上賀茂神社までは遠すぎるのではないか、こう思われるかもしれませんが現在の上賀茂神社はGHQの接収等をも含めてかなり規模が狭くなっていまして、当時は参拝客による収益ではなく、社領からの年貢などに依存し、実は隣り合っていたという事情はある。

賀茂別雷命も本殿に祀られていた時代が江戸時代まで続いていたというから驚きなのですが、ようやく明治時代に貴舩神社となり上賀茂神社からの距離を置く事ができた、安心だと。この美しい幻想的と言える雪景色の奥にそんな複雑な歴史を湛えているのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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