■戦争開戦二年
2022年2月24日のあの日から二年です。日本は依然として平和を謳歌していますがその平和は維持する努力と覚悟が無ければ願うだけの平和主義では成果としての平和は受け取れない。

ロシアウクライナ戦争は本日、開戦二年目を迎えました。戦線は膠着していますが、総力戦体制を完成させたロシア軍の人命や装備を考えない攻勢を前に、総力戦体制を固めつつも国力の限界と、現在の戦争を限定戦争と見做している欧米支援の低調や欧米軍需産業の限界により、緩慢ではあるもののゆっくりと押されている、これが二年目の戦争の現状だ。

支援疲れ、ウクライナを支援する有志国のなかにあって例外的なのは日本なのかもしれません。それは憲法上防衛装備品の提供を自粛し、いや高機動車や個人防護装備と糧食や衛生器材などは奥ているが、そして言語の壁からウクライナ避難民も数千の規模であり十数万を受け入れる諸国とは事情が違う、復興支援や人道支援はODAの規模に留まっている。

ウクライナ支援、すると世界にウクライナ支援の余力があるのは日本だけではないのかと思うのです。それは、ウクライナを敗北させる事は遠い視点では日本有事に間接的に響くものであり、一方的な侵略を受けたウクライナを敗北させる事になれば、日本の戦後平和主義や平和政策を土台から覆され、大東亜戦争さえ正当化させる時代の再来を意味します。

捨てている装備位そのまま税金を積んで解体するのではなくウクライナに供与してはどうか、毎年数機のAH-1S対戦車ヘリコプター、毎年数十両の90式戦車、毎年数十門のFH-70榴弾砲、毎年数両のMLRS多連装ロケットシステム、毎年数セットの81式短距離地対空誘導弾、毎年1隻の潜水艦、毎年1隻の護衛艦、毎年数機のC-1輸送機を使えても廃棄へ。

捨てている装備を、ウクライナへ直接供与できないならば、ウクライナへ軍事供与を行い現役部隊の装備が定数割れとなている欧州諸国やオーストラリアとカナダへ譲渡してもいいのではないか、例えば潜水艦、稼働潜水艦を調達するには邦貨換算一千億円近くが必要で、これを高々20年使っただけの動く艦を供与するならば、受領した国は国防費に余裕が。

90式戦車やFH-70榴弾砲は、稼働する火砲の少なくない数を供与したことで再生産まで定数割れのまま、全面稼働生産でも代替装備が揃わない国には干天の慈雨というべき装備となりますから、ウクライナへ供与した分の装備補填が無く不足している故に追加生産の装備費用も高騰している国へ廃棄する装備を供与しては、とも思うのです。せめてそれ位は。

次は西欧の番なのでしょう。ロシア政府はウクライナ軍を相手に大量の損耗を強いられている実情を国内に公式説明する際、公然と、ウクライナ軍との戦いはNATOやアメリカとの戦いとなていると説明し、国内世論に既に解決が難しい欧米諸国との対立の種をまいています。しかし同時に、その欧米諸国にはロシア世論として、日本も含まれているのです。

あなた方は戦う準備はできているのか。ウクライナのポドリャク大統領補佐官が、ロシアウクライナ戦争開戦二年目に関するNHKの特別インタビューにおいて話されたうちのひとことです。それはウクライナが苦戦を続けている最中、欧米や豪州の有志諸国の軍事援助が滞りがちとなっている状況で、ウクライナが敗れれば次ロシアが向かう先を示唆した。

日本は制度上、北海道ではロシア軍の上陸を想定した防衛体制を冷戦時代から維持していますし、長年防衛空白地帯といわれてきました九州沖縄南西諸島の防衛も水陸機動団や南西航空方面隊と戦闘機増強に離島防衛ミサイル部隊の強化や早期警戒機増強、その強化を順次進め、間もなく那覇の第15旅団は第15師団へ拡大改編され、一定の目処はつく。

自衛隊の防衛基盤構築は創設以来大車輪で進められていて、実のところ少ないと言われ続けた弾薬備蓄なども、欧州の現状などを比較した場合は一概に少ない水準ではない。ただ唯一の問題は、戦う準備の優先度で、2000年から2020年代初めまで日本の防衛はミサイル防衛を第一としていたため、ヘリコプターなどがかなり削減されてしまっているのだが。

自衛隊の準備が出来ているのは、自衛隊は冷戦後戦車と火砲はかなり減ったのですが、それでも欧州NATO諸国を視た倍、自衛隊以上の火砲や戦車を持つ国はアメリカやトルコなどごくわずか、そして冷戦取穴時に最大の護衛艦は、くらま、満載排水量7200tでしたが、今は護衛艦かが、満載排水量27000t、早期警戒機や輸送機などもかなり増強されています。

冷戦後も防衛力を堅持した背景には、欧州正面ほど平和の配当、というような緊張緩和が北東アジア地域には成り立たなかった事と、もともとGNP1%防衛費、という最小限の防衛費しか長らく財務当局や国民世論が認めていなかった為に、憲法上集団的自衛権行使できず一国で戦わねばならない日本には減らす余地がなかった、ともいえるのかもしれません。

本土決戦、そう日本の防衛は専守防衛、憲法9条のもとでの防衛は相手を本土に迎え撃って戦うという制度である為、1945年の沖縄戦のような戦いが日本の防衛戦略の基本形となります。自衛隊は絶対後悔されない防衛計画として、あらゆる地域に上陸される事を想定し、相手の輸送能力や部隊規模から防衛戦略を定め、侵攻宗教と揶揄されるような徹底で。

しかし、これは制度と防衛戦略で、これを担保するのは憲法である、憲法が国民の平和的生存権を担保する為に本土決戦までは国民負担を求めないが、しかし本土決戦となった場合には国民にも、憲法そのものをまもるための負担というものを求められる、という事を、国民、いや群体としての日本社会が覚悟を共有しているのか、という素朴な疑問はある。

集団的自衛権さえ、漸く第二次安倍政権で、つまり2010年代に、行使し得ることを法制度に盛り込んだため、つまり日米同盟や国連加盟国ではあるものの、日本は専守防衛と本土決戦主義を1954年の自衛隊創設以来堅持し続けてきました訳で、また集団的自衛権の行使は2024年の今日でも制限があり、無制限の行使は出来ず、一国で戦わねばならない。

あなた方は戦う準備はできているのか。ウクライナのポドリャク大統領補佐官が問うた、日本への宿題のような問いには、日本社会全体で考えなければならないようにも思うのです。そして同時に、マニアの知識と笑われるのですが、ロシアが既に一万発以上をウクライナへ打ち込んでいる自爆用無人機の飛行距離は1500km、沿海州から日本にも届くのだ。

平和、というものを考えなければならない、少なくとも軍事力による現状変更を試みる世界の国々の為政者に、日本の平和主義を悪用させてはなりません、平和は目的であり国際公序である、すると平和主義を第三国が様々な影響力を通じて日本に手段としての平和を求め結果としての平和よりも重視させるよう機運を醸成させることは、あっていいのか。

平和を悪用させない、例えば日本が1930年代からの戦争に際して、平和を手段として用いるよう中国やアメリカで交錯していたらどうなったか、というようなものです。その真逆の行動を突き付けられているのではないか、それは社会全体で、平和の定義というものと手段としての平和と結果としての平和、どちらが尊いのかを考える機会が必要と考えるのです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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2022年2月24日のあの日から二年です。日本は依然として平和を謳歌していますがその平和は維持する努力と覚悟が無ければ願うだけの平和主義では成果としての平和は受け取れない。

ロシアウクライナ戦争は本日、開戦二年目を迎えました。戦線は膠着していますが、総力戦体制を完成させたロシア軍の人命や装備を考えない攻勢を前に、総力戦体制を固めつつも国力の限界と、現在の戦争を限定戦争と見做している欧米支援の低調や欧米軍需産業の限界により、緩慢ではあるもののゆっくりと押されている、これが二年目の戦争の現状だ。

支援疲れ、ウクライナを支援する有志国のなかにあって例外的なのは日本なのかもしれません。それは憲法上防衛装備品の提供を自粛し、いや高機動車や個人防護装備と糧食や衛生器材などは奥ているが、そして言語の壁からウクライナ避難民も数千の規模であり十数万を受け入れる諸国とは事情が違う、復興支援や人道支援はODAの規模に留まっている。

ウクライナ支援、すると世界にウクライナ支援の余力があるのは日本だけではないのかと思うのです。それは、ウクライナを敗北させる事は遠い視点では日本有事に間接的に響くものであり、一方的な侵略を受けたウクライナを敗北させる事になれば、日本の戦後平和主義や平和政策を土台から覆され、大東亜戦争さえ正当化させる時代の再来を意味します。

捨てている装備位そのまま税金を積んで解体するのではなくウクライナに供与してはどうか、毎年数機のAH-1S対戦車ヘリコプター、毎年数十両の90式戦車、毎年数十門のFH-70榴弾砲、毎年数両のMLRS多連装ロケットシステム、毎年数セットの81式短距離地対空誘導弾、毎年1隻の潜水艦、毎年1隻の護衛艦、毎年数機のC-1輸送機を使えても廃棄へ。

捨てている装備を、ウクライナへ直接供与できないならば、ウクライナへ軍事供与を行い現役部隊の装備が定数割れとなている欧州諸国やオーストラリアとカナダへ譲渡してもいいのではないか、例えば潜水艦、稼働潜水艦を調達するには邦貨換算一千億円近くが必要で、これを高々20年使っただけの動く艦を供与するならば、受領した国は国防費に余裕が。

90式戦車やFH-70榴弾砲は、稼働する火砲の少なくない数を供与したことで再生産まで定数割れのまま、全面稼働生産でも代替装備が揃わない国には干天の慈雨というべき装備となりますから、ウクライナへ供与した分の装備補填が無く不足している故に追加生産の装備費用も高騰している国へ廃棄する装備を供与しては、とも思うのです。せめてそれ位は。

次は西欧の番なのでしょう。ロシア政府はウクライナ軍を相手に大量の損耗を強いられている実情を国内に公式説明する際、公然と、ウクライナ軍との戦いはNATOやアメリカとの戦いとなていると説明し、国内世論に既に解決が難しい欧米諸国との対立の種をまいています。しかし同時に、その欧米諸国にはロシア世論として、日本も含まれているのです。

あなた方は戦う準備はできているのか。ウクライナのポドリャク大統領補佐官が、ロシアウクライナ戦争開戦二年目に関するNHKの特別インタビューにおいて話されたうちのひとことです。それはウクライナが苦戦を続けている最中、欧米や豪州の有志諸国の軍事援助が滞りがちとなっている状況で、ウクライナが敗れれば次ロシアが向かう先を示唆した。

日本は制度上、北海道ではロシア軍の上陸を想定した防衛体制を冷戦時代から維持していますし、長年防衛空白地帯といわれてきました九州沖縄南西諸島の防衛も水陸機動団や南西航空方面隊と戦闘機増強に離島防衛ミサイル部隊の強化や早期警戒機増強、その強化を順次進め、間もなく那覇の第15旅団は第15師団へ拡大改編され、一定の目処はつく。

自衛隊の防衛基盤構築は創設以来大車輪で進められていて、実のところ少ないと言われ続けた弾薬備蓄なども、欧州の現状などを比較した場合は一概に少ない水準ではない。ただ唯一の問題は、戦う準備の優先度で、2000年から2020年代初めまで日本の防衛はミサイル防衛を第一としていたため、ヘリコプターなどがかなり削減されてしまっているのだが。

自衛隊の準備が出来ているのは、自衛隊は冷戦後戦車と火砲はかなり減ったのですが、それでも欧州NATO諸国を視た倍、自衛隊以上の火砲や戦車を持つ国はアメリカやトルコなどごくわずか、そして冷戦取穴時に最大の護衛艦は、くらま、満載排水量7200tでしたが、今は護衛艦かが、満載排水量27000t、早期警戒機や輸送機などもかなり増強されています。

冷戦後も防衛力を堅持した背景には、欧州正面ほど平和の配当、というような緊張緩和が北東アジア地域には成り立たなかった事と、もともとGNP1%防衛費、という最小限の防衛費しか長らく財務当局や国民世論が認めていなかった為に、憲法上集団的自衛権行使できず一国で戦わねばならない日本には減らす余地がなかった、ともいえるのかもしれません。

本土決戦、そう日本の防衛は専守防衛、憲法9条のもとでの防衛は相手を本土に迎え撃って戦うという制度である為、1945年の沖縄戦のような戦いが日本の防衛戦略の基本形となります。自衛隊は絶対後悔されない防衛計画として、あらゆる地域に上陸される事を想定し、相手の輸送能力や部隊規模から防衛戦略を定め、侵攻宗教と揶揄されるような徹底で。

しかし、これは制度と防衛戦略で、これを担保するのは憲法である、憲法が国民の平和的生存権を担保する為に本土決戦までは国民負担を求めないが、しかし本土決戦となった場合には国民にも、憲法そのものをまもるための負担というものを求められる、という事を、国民、いや群体としての日本社会が覚悟を共有しているのか、という素朴な疑問はある。

集団的自衛権さえ、漸く第二次安倍政権で、つまり2010年代に、行使し得ることを法制度に盛り込んだため、つまり日米同盟や国連加盟国ではあるものの、日本は専守防衛と本土決戦主義を1954年の自衛隊創設以来堅持し続けてきました訳で、また集団的自衛権の行使は2024年の今日でも制限があり、無制限の行使は出来ず、一国で戦わねばならない。

あなた方は戦う準備はできているのか。ウクライナのポドリャク大統領補佐官が問うた、日本への宿題のような問いには、日本社会全体で考えなければならないようにも思うのです。そして同時に、マニアの知識と笑われるのですが、ロシアが既に一万発以上をウクライナへ打ち込んでいる自爆用無人機の飛行距離は1500km、沿海州から日本にも届くのだ。

平和、というものを考えなければならない、少なくとも軍事力による現状変更を試みる世界の国々の為政者に、日本の平和主義を悪用させてはなりません、平和は目的であり国際公序である、すると平和主義を第三国が様々な影響力を通じて日本に手段としての平和を求め結果としての平和よりも重視させるよう機運を醸成させることは、あっていいのか。

平和を悪用させない、例えば日本が1930年代からの戦争に際して、平和を手段として用いるよう中国やアメリカで交錯していたらどうなったか、というようなものです。その真逆の行動を突き付けられているのではないか、それは社会全体で、平和の定義というものと手段としての平和と結果としての平和、どちらが尊いのかを考える機会が必要と考えるのです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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