■邪鬼や病魔を打ち払う
豆を撒く行事というだけでは節分というものは理解できないもので実際吉田神社を探訪されますと豆まきの舞台が無い事に驚かれるかもしれない。
節分、セッツブーン、セツブンガー。最近は色々な表現が為されるようですが、考えてみますともう少し、小学校の社会科などの授業で節分というものを体系立てて知識を得られるようにしてゆく必要があるのではないかなあ、とおもうところです。
セッツブーン、子供たちが豆まきをする、関東では落花生を投げる、北海道ではチョコを投げ、防衛大学校では納豆とか椅子を投げ合う行事として有名です。ただ、その大本は追儺という、旧暦の大晦日に邪鬼や病魔を打ち払う宮中行事がそのはじまり。
追儺、この儀式そのものは奈良時代に大陸中国からの文化として日本へはいりましたもので、やはり立春の前日、旧暦の大晦日に執り行われていた宮中行事であるところの大儺を取り入れたものとされています。もっとも、中国ではチョコレートは投げません。
大儺、中国では皇帝の前に祭事を執り行う方相氏を先頭に幾人もの侲子が付き従い、先ず舞踊を奉じて後、方相氏は四角い面に熊野毛皮をまとい両手に鉾と盾を構え、侲子たちを魑魅魍魎に見立て内裏から追い払うというお祓いと巡幸をおこなったという。
大陸から日本に定着しました追儺式では、方相氏ではなく儺人が祓いの儀式を執り行い、葦と桃で造った弓を鳴らし、陰陽師とともに方相氏と侲子たちが太鼓を鳴らし内裏から鬼たちを追い払うという方式を採っていました。なお当時、鬼役はいなかった。
鬼が見える形となったのは平安遷都の後となっていまして、官奴が鬼役を担い儺人が厄払いのかたちで鬼を内裏から外へと追い出す祭事となっています。これ、考えると奈良時代には節分の鬼役がいなくとも祓う仕草の先に殿上人たちは空想の鬼をみていた訳で。
奈良時代には、考えると天平の天然痘、人口の三割が死亡したという日本史上最悪のパンデミックにより日本の律令制度が事実上崩壊するわけですが、宮中でも藤原氏四兄弟こと藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂、相次ぐ病死する災厄があった。
天平の天然痘として聖武天皇の治世下で滅亡しかけたわけですので、鬼役など任命せずとももう見えぬ災厄は目の前に居て、という実情が垣間見えます。逆に平安遷都の後に鬼役を任じられるようになったのは、社会が安定した証左といえるのかもしれません。
セッツブーン。さて、今日の豆まきというのは愉しい、大人になっても豆まきがやめられずに東京マルイのM-4A1とかHK-416とかを購入して6mmの豆まきをやっている人たちがいるほどであるのですから、しかし節分がいつごろから慶事となったのでしょう。
セツブンガーとも一部でいわれるところですが、民俗学者の柳田國男氏が示した一説を挙げますと、追儺そのものを子供がまねたものが鬼ごっこではないかといい、また鬼ごっこはもともと、逃げるほうが鬼であり追う方が厄払いをおこなっていた構図でした。
追儺の除目、もちろん平安時代に鬼ごっこを大人も年中楽しんでいたという訳ではありません、慶事となりましたのは厄払いの付帯行事の方で、当時は追儺式に併せて任官の官職に漏れた者への補欠補職式が行われていたので、ここが金銭面で良かったことに。
除目という名の補職は当時、春と秋に行われていたというので、任官に失敗したものへの追加補職は祭事そのもので、付帯行事の方が盛り上がるといいますと、自衛隊行事でもみんな式典よりも模擬戦を楽しみにするような、風潮は当時からあったのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
豆を撒く行事というだけでは節分というものは理解できないもので実際吉田神社を探訪されますと豆まきの舞台が無い事に驚かれるかもしれない。
節分、セッツブーン、セツブンガー。最近は色々な表現が為されるようですが、考えてみますともう少し、小学校の社会科などの授業で節分というものを体系立てて知識を得られるようにしてゆく必要があるのではないかなあ、とおもうところです。
セッツブーン、子供たちが豆まきをする、関東では落花生を投げる、北海道ではチョコを投げ、防衛大学校では納豆とか椅子を投げ合う行事として有名です。ただ、その大本は追儺という、旧暦の大晦日に邪鬼や病魔を打ち払う宮中行事がそのはじまり。
追儺、この儀式そのものは奈良時代に大陸中国からの文化として日本へはいりましたもので、やはり立春の前日、旧暦の大晦日に執り行われていた宮中行事であるところの大儺を取り入れたものとされています。もっとも、中国ではチョコレートは投げません。
大儺、中国では皇帝の前に祭事を執り行う方相氏を先頭に幾人もの侲子が付き従い、先ず舞踊を奉じて後、方相氏は四角い面に熊野毛皮をまとい両手に鉾と盾を構え、侲子たちを魑魅魍魎に見立て内裏から追い払うというお祓いと巡幸をおこなったという。
大陸から日本に定着しました追儺式では、方相氏ではなく儺人が祓いの儀式を執り行い、葦と桃で造った弓を鳴らし、陰陽師とともに方相氏と侲子たちが太鼓を鳴らし内裏から鬼たちを追い払うという方式を採っていました。なお当時、鬼役はいなかった。
鬼が見える形となったのは平安遷都の後となっていまして、官奴が鬼役を担い儺人が厄払いのかたちで鬼を内裏から外へと追い出す祭事となっています。これ、考えると奈良時代には節分の鬼役がいなくとも祓う仕草の先に殿上人たちは空想の鬼をみていた訳で。
奈良時代には、考えると天平の天然痘、人口の三割が死亡したという日本史上最悪のパンデミックにより日本の律令制度が事実上崩壊するわけですが、宮中でも藤原氏四兄弟こと藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂、相次ぐ病死する災厄があった。
天平の天然痘として聖武天皇の治世下で滅亡しかけたわけですので、鬼役など任命せずとももう見えぬ災厄は目の前に居て、という実情が垣間見えます。逆に平安遷都の後に鬼役を任じられるようになったのは、社会が安定した証左といえるのかもしれません。
セッツブーン。さて、今日の豆まきというのは愉しい、大人になっても豆まきがやめられずに東京マルイのM-4A1とかHK-416とかを購入して6mmの豆まきをやっている人たちがいるほどであるのですから、しかし節分がいつごろから慶事となったのでしょう。
セツブンガーとも一部でいわれるところですが、民俗学者の柳田國男氏が示した一説を挙げますと、追儺そのものを子供がまねたものが鬼ごっこではないかといい、また鬼ごっこはもともと、逃げるほうが鬼であり追う方が厄払いをおこなっていた構図でした。
追儺の除目、もちろん平安時代に鬼ごっこを大人も年中楽しんでいたという訳ではありません、慶事となりましたのは厄払いの付帯行事の方で、当時は追儺式に併せて任官の官職に漏れた者への補欠補職式が行われていたので、ここが金銭面で良かったことに。
除目という名の補職は当時、春と秋に行われていたというので、任官に失敗したものへの追加補職は祭事そのもので、付帯行事の方が盛り上がるといいますと、自衛隊行事でもみんな式典よりも模擬戦を楽しみにするような、風潮は当時からあったのですね。
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