北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】北野天満宮-梅花祭,浄妙院での謹慎を経て怨霊に-清涼殿落雷事件への長い道

2024-02-28 20:24:41 | 写真
■太宰府配流その先に
 梅花祭とともにしかし単に花を愛でるだけでは風流を実感するところまで至らずやはりその先と源流にある歴史を知りたい。

 北野天満宮、梅花が美しいのですがその背景には祭神となられました菅原道真公、配流先の太宰府で没した元右大臣を慰霊するという社殿でもあります。太宰府、あそこは酷い街だ二度と行きたくはない最悪だ、という印象は今行きますと九州には全くありません。

 太宰府配流、しかし現実はといいますと今の太宰府の街並みからは想像できないところがあったようです。先ず配流ですので太宰府への移動は全て自費で移動しなくてはなりません、いや配流ではなく左遷、と反論があるのかもしれませんが実態を見てみると。

 左遷か配流か、ですが太宰府には菅原道真に仕事がありませんでした、先ず官職が大宰員外帥といい、員外、という称号なのです。大宰府という地名は今こそ定着していますが、大宰というのは重要な行政機関であるものの、九州以外にはおかれていない制度でして。

 吉備国大宰、という役所が置かれた記録はあるのですが一時的なものであり、筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅、この9国を治め且つ離島地域、壱岐、対馬、奄美の離島地域を所管する、その長官には大宰権帥という官職の官僚が補職された。

 大宰員外帥、すると今風に言えば名ばかり管理職なのか、といわれますともう少しひどく、俸給と従者が認められませんでした。何より仕事がなく実質的に大宰府浄妙院での謹慎、というものが実態であったようで、これは左遷というのでは余りに、まさに配流だ。

 浄妙院での謹慎を経て怨霊に。太宰府配流から菅原道真が没したのは2年後、です。浄妙院といいますと今は祠がありますが、当時の浄妙院は放置された荒れ寺という様相であったようで、先ず壁が無かった、その上で雨漏りが。南国九州とはいえ冬は越せぬ。

 清涼殿落雷事件が有名ですが、菅原道真没したのちの、怨霊の仕業ではないか、と心当たりある方が夜眠れなくなるようなことは幾つか起きていまして、実際菅原道真薨去から清涼殿落雷事件までは実に27年間もありました、ただ27年間が平穏では無かった。

 菅原高視放免、実はこの菅原道真配流は、菅原道真その一人だけを配流したわけではなく一族郎党全員様々な場所に配流されているのですが、菅原道真没後3年を経て嫡子高視が放免され帰京を許されています、官職は大学頭、これで皆ひと段落と思ったのだけれど。

 藤原菅根死亡はその5年後でした、敦仁親王立太子に際し菅原道真が春宮侍読として推挙し、蔵人頭まで出世するのですが昌泰の変に際し内裏に向かった宇多法皇を追い返した官僚といい、その後に醍醐天皇治世下で参議となりますが、落雷に打たれ死んだ。

 藤原時平、藤原北家出身で左大臣として活躍し、しかし昌泰の変では菅原道真を配流に追い込んだ張本人とされています。この方は藤原菅根死亡の翌年に病死します。実はこのひと、習志野訓練場の近くにある二宮神社では祭神と祀られていて驚いたものです。

 二宮神社参拝の際に藤原時平を改めて別の角度から知る機会になったと喜んだものですが、大鏡、北野天神縁起絵巻、扶桑略記、今昔物語、大和物語、十訓抄、どれをみても好色とか下品とか引きこもりとか、散々書かれていました。没したのは39歳で早逝だ。

 清涼殿落雷事件はこうした幾つもの出来事の先に発生しまして、それまでに菅原氏由緒の場所にはいくつもの神社が創建され、慰霊を試みていたのですが、大事件と言える清涼殿落雷事件を経て、この地に北野天満宮が造営され、人々の集いの場となりました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】北野天満宮-梅花祭,美しい梅花の先に菅原道真公と天神信仰の中心地で考える昌泰の変

2024-02-28 20:00:31 | 写真
■菅原道真公を祀る社殿
 寒い冬の戻りという割にはここのところ強風がものすごくいよいよ梅花の季節も風により強制的な終幕が近いこの頃です。

 梅の名所は天満宮、今出川通を京都府警上京警察署の向かい側に鎮座しています北野天満宮はその大鳥居から参道が続き、そして楼門へ本殿へ至る参道の道々には梅花と、そして西方には梅園が、ちょうどこの季節には梅花の美しさをみせているところで。

 北野天満宮、その歴史は無実の罪により配流となり、配流先の太宰府で没した菅原道真公を弔う、ことで当時頻発していた災害や不審死をどうにか祟らないでほしいと願う為に創建されたことは良く知られています。すると、菅原道真公に興味が湧くのですね。

 菅原道真公を祀る社殿、此処北野天満宮は菅原道真公と天神信仰の中心地であり、天暦元年こと西暦947年に創建されました。宇多天皇に重用された官僚、醍醐天皇の時代には右大臣にまで上り詰めました。宇多天皇といえば寛平の治の行革で知られる天皇さん。

 宇多天皇の寛平の治、平安朝の行政は摂政の系譜に在った藤原基経が清和天皇と陽成天皇と光孝天皇そして宇多天皇と四代の天皇に仕えるとともに実務を取り仕切り、事実上初の関白となります。宇多天皇は先ず藤原基経薨去を受け若手起用に乗り出します。

 藤原時平、源能有、菅原道真、藤原保則、こう若手起用といいますと語弊がありますか、実際には藤原基経の藤原北家嫡流のみによる政治を改め、藤原北家からは藤原時平を重用するとともに幅広い人材を起用し、そして行政改革に乗り出した、ということ。

 遣唐使廃止による冊封体制や朝貢関係等への一体化からの離脱、類聚国史編纂による歴史問題の明確化、問民苦使派遣による地方政治の規律強化、昇殿制の制定による文官登用制度への世襲から実力主義への転換、この行政改革はその後の日本史に影響が大きい。

 法皇宣下、しかし宇多天皇は譲位により天皇を退位すると東寺での受戒を経て仁和寺に出家し法皇となられます。そして仁和寺からの院政、この際に勅令を以て菅原道真公の大納言除目を発布し、藤原北家の藤原時平に続く第二位の官職を賜れたのですが。それはそれ。

 斉世親王、太宰府配流の要因となりました無実の罪というのは宇多法皇の皇子である斉世親王を菅原道真が天皇に即位させようとした、というもの。大納言となりました礼に普通の事ではないか、と思われるかもしれませんが時の醍醐天皇、その弟でもあったという。

 醍醐天皇に退位を強いるのではないかという嫌疑とともに、この斉世親王さんは菅原道真の三女菅原寧子と結ばれていまして、つまりは斉世親王さんは婿という係累となっていた。いやそもそも即位させようとしていないのでしょうが、ケシカラン、ということ。

 昌泰の変、こうした背景で進んでいました。院政の時代ですので醍醐天皇と宇多法皇の御世であったのですが、宇多法皇は高野山や比叡山と熊野詣を熱心に行っていまして、いまならば特急くろしお、特急こうや、日帰りが可能なのかもしれませんが、当時はそれは。

 熊野詣は当時特急くろしお等は運行されておらず当然オーシャンアローも運行されていない、つまり往復で一か月程度を要する行幸となりまして、これは時の権力者が相当安定した時期でなければ首都である京都を空けられないというのが当時の熊野詣という。

 菅原道真配流、この一報が宇多法皇に上奏された際には時すでに遅く、直ぐ内裏に向かうものの内裏の門扉は既に閉ざされ醍醐天皇に問うことも出来なかった、昌泰の変はこうして起こりまして、美しい梅花の先には、こうした悲しい歴史があったのですね。

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ウクライナ情勢-ロシア軍アウディイフカ西方ラストッチキネ村占領,パリ緊急会合-NATO加盟国は派兵検討開始

2024-02-28 07:01:01 | 国際・政治
■防衛情報-ウクライナ戦争
 このところウクライナ情勢の展開が急すぎる印象があります、アウディイフカ占領までは毎日数十mの前進でしたから数kmを数日間で一気に攻撃を加える状況は新しい展開だ。

 ウクライナ軍はアウディイフカ西方のラストッチキネ村からも撤退した、27日付ロイター通信が報じました。撤退はアウディイフカ市街地から2km西方に当り、有利な防御陣地構築へウクライナ軍はアウディイフカ市街地を放棄してから二週間となりますが、2km先に構築しようとした防御陣地がロシア軍の戦果拡張を防ぐ事に失敗したことをしめします。

 アウディイフカ攻防戦ではロシア軍は四カ月間にわたり両翼包囲を行ったもののウクライナ軍防衛線は耐えていましたが、BBCなど一部報道にはアウディイフカからの撤退に際しかなりの行方不明者を出したとされ、ラストッチキネ村までの2kmをロシア軍が短期間で突破した事は、ウクライナ東部戦線において2022年以来の事態緊迫が生じた事を示します。
■欧州攻撃に備えるべき
 この発言は日本についても特に北海道に当て嵌まり得る。自衛隊は反撃能力整備により国土を戦場としない岸田ドクトリンへ転換中ですがロシア本土のどこを叩くとどういうミサイル戦となるのかを考えると戦車や戦闘ヘリの方が重要ではないか。

 フランスのマクロン大統領は26日、今後数年内に起こり得るロシア軍の欧州攻撃に備えるべきである、とパリにおいて開かれたウクライナ支援国会合において16カ国首脳を前に持論を示し、その上でロシア人との戦争を望まず、事態のエスカレートなど不測の事態を回避するための欧州各国における更なる軍事支援及び財政支援の必要性を示しました。

 ロイター通信が日本時間27日に伝えたところによれば、パリでの支援会合においては、ロシア軍のウクライナにおける攻撃再興を前に大きな危機感が在った、とオランダのルッテ首相の発言を紹介しており、一方欧州にはウクライナ支援委必要な砲弾などの生産が間に合っておらず、チェコ政府が提唱する世界中での弾薬調達構想などが話し合われたという。
■ウクライナ派兵を検討
 日本はウクライナに対して防衛装備品の中でも武器供与を拒んでいますが欧州は直接派遣の可能性に言及しています。

 NATO加盟国一部がウクライナ派兵を検討している、ロイター通信が日本時間2月27日に報じたスロバキアのフィツォ首相発言として、ロシア軍のウクライナでの攻撃がこの数週間で大規模に進展している事を受け、ウクライナとの二国間安全保障協力の形で欧州からの兵力派遣を検討しているという。なお、スロバキアは現在派兵は検討していない。

 フィツォ首相発言はパリでのウクライナ支援国会合を前に発言されたもので、この支援国会合そのものが緊急開催であり、欧州のウクライナ支援策がロシア軍事行動を抑制できていない緊急事態を背景に行われている事を示唆しています。ただ、フィツォ首相は欧州各国の軍隊がウクライナでのどういった任務に当るのかは明らかにできないとしました。

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