■さくら見上げ歴史を想う
寺院故に厳正な気持ちも込めつつの花見といいますか観桜の拝観に際してここは人の気が薄いのが心地よい。
妙顕寺、さくらの名所というのではなく日蓮宗の深い歴史とともに見上げる桜の色合いを感じる場所というべきなのでしょうか。天台宗との対立から三度にわたり京都を追われ、三度にわたり赦されているという日像さんのお寺であり、京都で最初の日蓮宗寺院だ。
六老僧という、日蓮には愛弟子の六人が全国に教えを広めていましたが、実は日像さんはこの六老僧には含まれていません、日蓮没年で12歳といいますから当然といえば当然なのですけれども、しかし六老僧には日像さんの実兄で師の、日朗が列せられていました。
綾小路大宮御坊、日朗さんと日像さんの書簡のやり取りに、この綾小路大宮御坊というものが出てきまして、天台宗の新興宗派監視が厳しい最中にもこうして密やかに布教は行っていたという、ただ、建武元年こと西暦1334年に後醍醐天皇より綸旨を賜ることに。
後醍醐天皇より綸旨を賜り勅願寺となりましたので、京都における地位は確たるものとなります。ただ、開かれた場所は現在の寺院とは異なることが全てを示すように、実はそのあとも茨の道を進む、なにしろ建武の親政を経て後醍醐天皇も後に移ろうのですからね。
光厳上皇の院宣を受けまして早速暦応4年こと1341年に、四条櫛笥という下京区のほうに移ることとなります、が院宣があっても院宣は院宣、嘉慶元年こと1387年に延暦寺衆徒に攻撃を受け伽藍が破壊されてしまいます。破壊は徹底しており、容易に再建は難しい。
若狭国小浜に寺院は一時避難することとなったのですが、幕府から救いの手が延ばされます、それは明徳4年こと西暦1393年に将軍足利義満の支援を受け、三条坊門堀川という今の二条城の南側あたりに伽藍を再建することとなり、名もその際に妙本寺と改めます。
足利義持は応永18年こと西暦1411年に自らの祈願寺と位置づけ庇護の対象としました。ただ、その墨書が乾かぬ応永20年こと西暦1413年、寺はまたしても延暦寺宗徒の攻撃を受け破壊、永正18年こと西暦1521年、足利義稙の命にて二条西洞院に再建された。
妙本寺の名は16世紀初頭のいつごろかに妙顕寺に戻されています。妙顕寺として新しい道を歩もう、という天文5年こと西暦1536年、今度は天文法華の乱で伽藍を破壊され、この頃には既に幕府も弱体化していた為、妙顕寺は今度は大阪の堺へ疎開することとなる。
天文法華の乱では日蓮宗寺院の多くは京都を脱出することとなりましたが、後奈良天皇は天文11年こと1542年に法華宗帰洛の綸旨を下し、法華宗寺院は徐々に京都へと戻り始めるのですが妙顕寺が京都に戻りましたのは少しあと、天文17年こと1548年の事です。
二条西洞院に再建されました妙顕寺ですが相当立地が良かったと見える。今度は天正12年こと西暦1584年に、天下人となった羽柴秀吉の命により今の場所へと移転します、その妙顕寺跡地には二条第妙顕寺城が造営されまして、場所を譲った為に多くの寄進を受けた。
二条第妙顕寺城に場所を譲り当地に移転したのちは、そのまま当地にあり続けています、それは天明8年こと西暦1788年にありました、天明の大火により焼失しているのですが、幕末の動乱では焼けることなく堂宇を令和の現代まで受け継ぐことができたという幸い。
裏千家今日庵と表千家不審菴がこの堂宇を囲むようにありますこの一角は、京都の市街地にあって、観光寺院ではなく観光バスさえ受け付けない街中に立地しています。そこは複雑で厳しいお寺の歴史とは風情を変えまして、とても静かに当地にあり続けるのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
寺院故に厳正な気持ちも込めつつの花見といいますか観桜の拝観に際してここは人の気が薄いのが心地よい。
妙顕寺、さくらの名所というのではなく日蓮宗の深い歴史とともに見上げる桜の色合いを感じる場所というべきなのでしょうか。天台宗との対立から三度にわたり京都を追われ、三度にわたり赦されているという日像さんのお寺であり、京都で最初の日蓮宗寺院だ。
六老僧という、日蓮には愛弟子の六人が全国に教えを広めていましたが、実は日像さんはこの六老僧には含まれていません、日蓮没年で12歳といいますから当然といえば当然なのですけれども、しかし六老僧には日像さんの実兄で師の、日朗が列せられていました。
綾小路大宮御坊、日朗さんと日像さんの書簡のやり取りに、この綾小路大宮御坊というものが出てきまして、天台宗の新興宗派監視が厳しい最中にもこうして密やかに布教は行っていたという、ただ、建武元年こと西暦1334年に後醍醐天皇より綸旨を賜ることに。
後醍醐天皇より綸旨を賜り勅願寺となりましたので、京都における地位は確たるものとなります。ただ、開かれた場所は現在の寺院とは異なることが全てを示すように、実はそのあとも茨の道を進む、なにしろ建武の親政を経て後醍醐天皇も後に移ろうのですからね。
光厳上皇の院宣を受けまして早速暦応4年こと1341年に、四条櫛笥という下京区のほうに移ることとなります、が院宣があっても院宣は院宣、嘉慶元年こと1387年に延暦寺衆徒に攻撃を受け伽藍が破壊されてしまいます。破壊は徹底しており、容易に再建は難しい。
若狭国小浜に寺院は一時避難することとなったのですが、幕府から救いの手が延ばされます、それは明徳4年こと西暦1393年に将軍足利義満の支援を受け、三条坊門堀川という今の二条城の南側あたりに伽藍を再建することとなり、名もその際に妙本寺と改めます。
足利義持は応永18年こと西暦1411年に自らの祈願寺と位置づけ庇護の対象としました。ただ、その墨書が乾かぬ応永20年こと西暦1413年、寺はまたしても延暦寺宗徒の攻撃を受け破壊、永正18年こと西暦1521年、足利義稙の命にて二条西洞院に再建された。
妙本寺の名は16世紀初頭のいつごろかに妙顕寺に戻されています。妙顕寺として新しい道を歩もう、という天文5年こと西暦1536年、今度は天文法華の乱で伽藍を破壊され、この頃には既に幕府も弱体化していた為、妙顕寺は今度は大阪の堺へ疎開することとなる。
天文法華の乱では日蓮宗寺院の多くは京都を脱出することとなりましたが、後奈良天皇は天文11年こと1542年に法華宗帰洛の綸旨を下し、法華宗寺院は徐々に京都へと戻り始めるのですが妙顕寺が京都に戻りましたのは少しあと、天文17年こと1548年の事です。
二条西洞院に再建されました妙顕寺ですが相当立地が良かったと見える。今度は天正12年こと西暦1584年に、天下人となった羽柴秀吉の命により今の場所へと移転します、その妙顕寺跡地には二条第妙顕寺城が造営されまして、場所を譲った為に多くの寄進を受けた。
二条第妙顕寺城に場所を譲り当地に移転したのちは、そのまま当地にあり続けています、それは天明8年こと西暦1788年にありました、天明の大火により焼失しているのですが、幕末の動乱では焼けることなく堂宇を令和の現代まで受け継ぐことができたという幸い。
裏千家今日庵と表千家不審菴がこの堂宇を囲むようにありますこの一角は、京都の市街地にあって、観光寺院ではなく観光バスさえ受け付けない街中に立地しています。そこは複雑で厳しいお寺の歴史とは風情を変えまして、とても静かに当地にあり続けるのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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