■扶桑型戦艦のような本殿
平野神社の歴史は長く複雑な歴史を湛えているのですが歴史を反映する様に本殿の構造も複札です。
平野神社の本殿、参拝に作法通り柏手を叩き頭を垂れまた拝むとともに、ふと見ましても、この本殿は独特の様式であると改めて思うのですが、祭神が多いというのも平野神社の一つの特色となっていまして、その特色は本殿が扶桑型戦艦の艦橋のように複雑です。
令和の大修理、無事落成してよかった。いや失敗するものではないだろうと思われるでしょうが、それでも修復のこの期間、2018年の台風で拝殿が倒壊したのちに、拝殿の向こうに見える本殿という風景がなかなか戻ってこなかった、あとは鳥居の扁額だけという。
第一殿に今木皇大神、いまきのすめおおかみと読みまして今木神とも記されるのですが主神として祀られる、そして第二殿には久度大神、くどのおおかみと読み久度神とも記されるのですが祀られている、そして本殿はまだまだ、四構造に分かれているのですね。
本殿は第三殿に古開大神、読み方はふるあきのおおかみといいまして古開神とも記される、そして第四殿には比売大神という、ひめのおおかみと読むのですが表記には比売神とも比咩神とも呼ばれる神様が祀られている。そして本殿が継ぎ足すように造営されている。
比翼春日造とも平野造とも呼ばれる構造なのですが、本殿第一殿と第二殿が寛永3年こと西暦1626年の造営であるのにたいして、本殿第三と第四殿は少し間をおいて寛永9年こと西暦1632年に造営されている、不思議ですね。ともに重要文化財に指定されている。
平野造の本殿は、写真もない時代で紙も貴重品であった時代によくぞ維持できたものだ、と感心するのですが、実は定期的に構造が変わっていたようでして、いまの様式、つまり複雑だが全体で一棟にまとまっている本殿構造は寛永年間からのものだ、ということです。
慶長年間に修理されたころには三棟構造であり第一第二殿連結の独立第三殿第四殿構造という、楔形陣形といいますか平等院鳳凰堂のようなといいますか防衛省本省庁舎のようなといいますか、並んでいたということです。いまのように四等分という構造ではない。
室町時代にはもっと別の構造であったといいまして四棟独立式第一第二第三第四殿様式という、並んでいたということなのですが、図面や絵画屏風絵に残るものがなく、すべて同じ構造のものが四棟並んでいたのかは不明といい、これがいつごろからかも不明で。
平安朝後期のころには二棟連結第一殿第二殿連結第三殿第四殿様式という、二つ並んでいたようです。当時の宮大工さんの記録を残そうにも、なにしろ京都は今のようにCOVID-19下にあっても順風満帆の街並み、という時代ではなく混乱していた時代もながい。
社殿について、しかしこれも知る方法はないのだけれども、様式を変える際にはどういった討議や合議があったのか、これは社格ではもともと非常に高い皇室守護と皇城鎮護という格式を持つ社殿ですので、建て替えについては相応の位置づけではあったはずです。
祭神には並んでもらったほうが、とか、主祭神は別格であろう、とか、討議されたのでしょうか、もしくは宮大工さんの予算の都合や入手できる資材と相談して議論よりも現実性であろうというような折衷案となったのでしょうか、ちょっと考えてしまうのですよね。
吹雪の季節に考えますと本当かと思わされるのですが、梅花は咲き始めていますので、もう少ししますと桜の季節となります、平野神社の桜は見事なのです、春待ちの木々は寒そうに雪化粧が厚化粧となっているのですけれど、それが何か満開の木々にみえてきますね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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平野神社の歴史は長く複雑な歴史を湛えているのですが歴史を反映する様に本殿の構造も複札です。
平野神社の本殿、参拝に作法通り柏手を叩き頭を垂れまた拝むとともに、ふと見ましても、この本殿は独特の様式であると改めて思うのですが、祭神が多いというのも平野神社の一つの特色となっていまして、その特色は本殿が扶桑型戦艦の艦橋のように複雑です。
令和の大修理、無事落成してよかった。いや失敗するものではないだろうと思われるでしょうが、それでも修復のこの期間、2018年の台風で拝殿が倒壊したのちに、拝殿の向こうに見える本殿という風景がなかなか戻ってこなかった、あとは鳥居の扁額だけという。
第一殿に今木皇大神、いまきのすめおおかみと読みまして今木神とも記されるのですが主神として祀られる、そして第二殿には久度大神、くどのおおかみと読み久度神とも記されるのですが祀られている、そして本殿はまだまだ、四構造に分かれているのですね。
本殿は第三殿に古開大神、読み方はふるあきのおおかみといいまして古開神とも記される、そして第四殿には比売大神という、ひめのおおかみと読むのですが表記には比売神とも比咩神とも呼ばれる神様が祀られている。そして本殿が継ぎ足すように造営されている。
比翼春日造とも平野造とも呼ばれる構造なのですが、本殿第一殿と第二殿が寛永3年こと西暦1626年の造営であるのにたいして、本殿第三と第四殿は少し間をおいて寛永9年こと西暦1632年に造営されている、不思議ですね。ともに重要文化財に指定されている。
平野造の本殿は、写真もない時代で紙も貴重品であった時代によくぞ維持できたものだ、と感心するのですが、実は定期的に構造が変わっていたようでして、いまの様式、つまり複雑だが全体で一棟にまとまっている本殿構造は寛永年間からのものだ、ということです。
慶長年間に修理されたころには三棟構造であり第一第二殿連結の独立第三殿第四殿構造という、楔形陣形といいますか平等院鳳凰堂のようなといいますか防衛省本省庁舎のようなといいますか、並んでいたということです。いまのように四等分という構造ではない。
室町時代にはもっと別の構造であったといいまして四棟独立式第一第二第三第四殿様式という、並んでいたということなのですが、図面や絵画屏風絵に残るものがなく、すべて同じ構造のものが四棟並んでいたのかは不明といい、これがいつごろからかも不明で。
平安朝後期のころには二棟連結第一殿第二殿連結第三殿第四殿様式という、二つ並んでいたようです。当時の宮大工さんの記録を残そうにも、なにしろ京都は今のようにCOVID-19下にあっても順風満帆の街並み、という時代ではなく混乱していた時代もながい。
社殿について、しかしこれも知る方法はないのだけれども、様式を変える際にはどういった討議や合議があったのか、これは社格ではもともと非常に高い皇室守護と皇城鎮護という格式を持つ社殿ですので、建て替えについては相応の位置づけではあったはずです。
祭神には並んでもらったほうが、とか、主祭神は別格であろう、とか、討議されたのでしょうか、もしくは宮大工さんの予算の都合や入手できる資材と相談して議論よりも現実性であろうというような折衷案となったのでしょうか、ちょっと考えてしまうのですよね。
吹雪の季節に考えますと本当かと思わされるのですが、梅花は咲き始めていますので、もう少ししますと桜の季節となります、平野神社の桜は見事なのです、春待ちの木々は寒そうに雪化粧が厚化粧となっているのですけれど、それが何か満開の木々にみえてきますね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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