昨日、不思議なことに、いくつも偶然が重なったこともあり、Aと久し振りに感情的に喧嘩をしてしまった。怒りは、自分の理想(期待など)と現実のギャップから発生し、知覚され、意識に登る。
そして、怒りの発露は、理想と現実を理屈で(冷静を装い)表現(抗議)しがちだが、その時の自分の悔しさ、思いなどの微妙な感情を一息ついて表現すると、少し冷静になったり、お互いの理解が深まったりするようである。
しかし、理屈と理屈の理論闘争や現実の認識理解・闘争といった、不毛な闘争を始めると、今度はお互いの認識が違うというという寂しさ(さらに、これまでの関係が親密であるほど益々先鋭化する)などから、さらに怒りが深まるものである。
最後には激怒!ここで、こころの防衛機制(置き換え)がそれでも働くのか、人は鉢を割ったり、時計を投げたりする。人に危害を与えないだけ良いかもしれないが・・・。
さて、気になった啄木の怒りに関係する短歌を3つ挙げてみよう。
怒(いか)る時
かならずひとつ鉢(はち)を割(わ)り
九百九十九(くひやくくじふく)割りて死なまし
よく怒る人にてありしわが父の
日ごろ怒らず
怒れと思ふ
庭石に
はたと時計をなげうてる
昔のわれの怒りいとしも
(石川啄木「一握の砂」より)
怒りとは、激怒とは何か。啄木の昇華された何かが胸を打つ。今日は、自分の怒りに対する認識を深める良き日かもしれない。
(一握の砂 2/16)
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