イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

風は何をもたらそうとしているのだろうか?

2009-11-07 | 第一章「意識と知覚」

 先日行った腰越海岸の砂浜の風紋。葛飾柴又近くの江戸川の波の様子に似ていてハッとした。状況(砂や水)は変わっても、本質(風)の作用は変わらない例なのかもしれない。

 寅さん映画を見始めた20歳ごろ。世の中は学生運動や実存主義が華やかであった。都会の孤独。疎外。今では死語になっている感じであるが、当時はよく語られたようだ。

 今の時代。何故か語られなくなった言葉ではあるが、やはり孤独、疎外、刹那的な行動は形が変わっても、依然引き継がれ、ある意味で一層深刻化しているようである。消費文化のグレードアップも原因なのだろうか。確かに、孤独を紛らすツール(携帯、ゲーム・・・)は増えている。

 さて、啄木の一握の砂の中に次の一句がある。今から100年以上の昔に読まれた短歌である。

 

浅草(あさくさ)の夜(よ)のにぎはひに

まぎれ入(い)り

まぎれ出(い)で来(き)しさびしき心

 

 この刹那的な感覚。自分でも、20歳台、30歳台、40歳台のころまで充分味わったように思う。ただ、50歳台の今、この感情は見えにくくなってしまった。理由は一つ、カトリックの信仰を深めたためだと思う(ちょっと唐突だが)。この信じて見えなくなるもの、見えるものというテーマは、恐らく21世紀の重大なテーマだと個人的には思っているが、日本では余り話題にならない。

 何故、見えなくなったか。恐らくここで啄木の短歌で語られていることと、今の自分の霊的な感覚は正反対なのだと思う。今、内田樹氏の「下流志向」230ページを開いてるが、その時間モデルと最大時間モデルの知見をうらずけるものかもしれない。

(一握の砂 8/16)

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