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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

ありのままの等身大の世界はイイもんだ!(個性の美 4/10)

2012-04-12 | 第十章「今ここでの恩寵」

 9年前に会社を辞めると、28年かけて築き上げた習慣が身についてたこともあり、名刺がないのがとても気になった。職業訓練も終えて働き出すころには、名刺を携えていろいろ活動したが、以前のような会社をバックにした信用というか・・・そういうものは当然無く、自分の等身大の世界に気づくと同時に、今までの世界が何か誇大感を産む世界であることに気付いた。

 誇大感は逆の卑小感(愛の孤独だろうか)と裏腹で、今ここのリアルな自己自身の実感に基盤があるのではなく、何か根無し草的な観念的な世界に基盤があるようだ。

 例えば、他人からどうみられるか?どうも人は幼いころより、その点に敏感になるように育てられるところがあるようだ(多い、少ないはあり、また日本の恥の文化はそれを助長するところも)。

 さて、自分の愛の原型を思索すると、3歳のころに両親から積み木で褒められた甘い思い出が浮かんだり、アラスカで真冬の海岸で遊んでいて海に落ち母にバスタブに運び込まれた思い出が浮かんだり、アラスカで隣のBさんが登校中に側溝に落ちそうにになった時に助けてくれたり・・・こんな風に、愛の原型の中では、大人のエゴ(さきの例では、将来祖父のような建築家になってほしいとの願いが微かに感じられるが)が投影されているものもあれば、無償の愛といった理屈抜きの経験もある。

 そして厳しい世の中を生きる中で、、特定の愛の原型を抱きつつ逞しく生活をするようになる。その時に、他人から褒められることを優先志向したり、他人からの愛が判りにくくなったりで、ちょっと病的な領域な入ることもあるのではないかと思う。

 青年時代など生育史といろいろ関係するのだろうが、それが高じてくると、ありのままの等身大の自分を生きるのではなく、自分の重要性、ユニークさに対する誇大感で生きる傾向が加速するのではないだろうか。理想と現実の混濁もあるかもしれない。

 自戒をこめて思うが、世の中には上から目線で<自分は重要な立場・仕事をし、人間の器、性格、能力、個性の美もあり、あなたとは違う!>そんな雰囲気の人を時折見かけることがある。そして、さらにその人に否定的な言動をすると、信じられない反撃にあうこともある。

 職場で、こういう人がいると周りが何か暗くなり、時に精神的に参ってしまう人がでたりする。

 <自分の重要性、ユニークさに対する誇大感>。そういうものを感じたとき、変に自分を責めたり悩んだりするのではなく、ひょっとしたら自己愛の問題かなと気が付くと救われることがある。詳しくは、自己愛パースナリティ障害について述べてある、左の「生き甲斐の心理学」をご覧ください。

 また、私は<自分の重要性、ユニークさに対する誇大感>が自分の中に変に沸き起こる時は、ありのままの自分に戻るべく、身体を動かしたり(太極拳など)、静かに祈ったりする。また、ありのままの自分とは何か?愛とは何か?こうした思索も大切なようだ。

 個性の美 4/10

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