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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

多摩で古層の性にまつわる愛を考える!(異文化と愛 ① 1/10)

2014-10-07 | 第九章「愛」

 台風一過の午後、地元の大栗川沿いを散策したり、愛宕神社周辺(縄文遺跡が近くに沢山ある)で富士山や丹沢を眺めたりした。台風の影響で、いつもの何倍か水量の大栗川を観て気付いたのだが、上流を眺めるとちょうど丹沢の蛭ケ岳(丹沢最高峰 1673m)が観える。そして、やや右側に富士山も見える。

 右に富士山、左のとんがっている頂が蛭ケ岳(頂の右が美しいスロープとなっている)

 先日、やはり川の上流の方向に田端環状積石遺跡があるのだが、その環状積石の長経の方向に蛭ケ岳が観え、冬至の日没にはその頂上付近に太陽が沈む。その時、蛭が岳は光背に包まれるように見えるそうだ(まだ観ていない)。今から3500年くらい前につくられた田端環状積石遺跡は深い祈りがささげられたのだとおもうが、この周辺の大栗川でも蛭ケ岳が綺麗に見えるスポットが多く、当時の文化の一端を担っていたのだと想う。

 縄文時代の祭りでは、女性を象徴する土器(土器は女性によってつくられたようだ)や土偶が壊されたようであるが、同時に男性器を象徴する石棒も壊されたりしたらしい。

 さて、若いころに奈良・飛鳥を訪れた時、飛鳥坐神社(あすかいますじんじゃ)に観光で訪れたことがあった。その時に溢れんばかりの男性や女性のシンボル像があり恥ずかしくなった記憶があるが、現代でも、その古層の信仰はこの地元の道祖神等で祈りの対象になっているようだ。

 そして、昨日は愛宕神社の麓近くに、不思議な小さな祠を見つけた。その中には、賽の神として立派な男性のシンボルをかたどった石棒が鎮座していた。縄文遺跡に縁がある場所であり、ひょっとして、周辺にストーンサークルがあるのではと妄想したり・・・。

   

 

 現代人にとっては、こうした像はなまなましく、違和感を感じる人もいるようだが、良く考えると、私たちの生活の中でも、数千年の縄文時代以前からの文化がとうとうと流れているように感じてならない。

 例えば、明日は晴れで皆既月食が観られそうな満月だが、月といえばウサギが餅をつく姿を想いうかべる方が多いと思う。

 自らを火の中に投げ込んだ兎の逸話は有名だが、日本神話の女神イザナミが火の神を産んで亡くなる話を彷彿させるし、ウサギの餅つきのは、それこそ縄文時代の石棒などと似ている。縄文と言わず、それ以前のドルメンやメンヒルなどの巨石文化に起源をもつのかもしれない。

 性の問題は、ネガティブな側面もあるためか意外に避けられたりする方も多いようだ。しかし、豊穣や再生にもつながる人間の重要な一面であり、全ての宗教においても扱い方はいろいろあると思うが大切にしている。聖書の雅歌や仏教の理趣経などに想いを馳せると、愛を考える上で性は真面目に考えなければならない領域だと思う。

 若いころ、飛鳥坐神社で何か違和感を覚えたが、今では祖先の愛の思想の一端だと思いなおしている。

異文化と愛 1/10

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