今日のマッサンは、心の蓋(ふた)がテーマだったようだ。心理学用語でいうと抑圧なのだろう。「娘の気持ちは親が一番わかってます。」という母親に対し、優子さんは結婚がいいかどうかわからないと思い始める。一方、心の蓋など関係なさそうな、鴨居社長も金魚占いをしたりするなか、ゴンドラの歌を口ずさみはじめる。何か心の蓋の問題なのだろうか?
U先生の「生き甲斐の心理学」ではフロイトの14の勉強をするが、こころの健康にも大きな影響を与える抑圧は、悔いの無い人生を送る上でも生涯のテーマのように思う。
さて、この2-3年、私も優子さんではないが、自分が住んでいる(いた)所、自分が生きている時代、自分と祖先が生きてきた時代を意識するようになってきた。平たく言えば、時間と空間という中核をもった自分の生育史だ。人から与えられた生育史ではなく、自分で認識する生育史だ。
昨日は、つつじヶ丘で勉強会があったが、帰宅してから好きな近くの愛宕神社周辺を散歩した。一番好きな愛宕神社の裏の見晴が良い丘の上に立ったときは日も沈んでしまっていたが、富士山は雲がかかっていたが、縄文の人が愛していた丹沢の最高峰、蛭ケ岳が綺麗に見えた。そして、縄文の人が死と再生を感じたように、私も何かスカッした気分になる。
この一帯は縄文の香りが漂うところであるが、神社も愛宕神社は縄文系の火の神、カグツチを祀っているし、麓ちかくにある賽の神の祠や熊野神社もどこか縄文を彷彿とさせる。
私は、都心から多摩に移り住んで30年になるが、多摩の歴史に興味を持つようになったのはこの1-2年である。多摩だけでなく、育った四ツ谷や新宿に興味を持つようになったのも最近である。歴史に深く興味を持つようになったのも5-6年なのだろう。それまで、自分が住んでいるところは何であり、自分が生きているときは何であるが、根源的に問うことはなかったかもしれない。
まるで、優子さんのように、心に蓋をしていたかもしれない。まあ、生きるためにメシを食べるために蓋をしなければならなかったのかもしれないが(ある意味で暇が必要)。ある種の驚きを感じてしまう。
自分が何であるか。宗教や哲学で大切に考える必要はあるが、臨床心理的にも何であるのか大切に考える必要はある。それは生育史が様々な日常の変化の中でストレスの大きな要素となることは確かであり、その対処方法の鍵も生育史にあると思えるからだ。
冒頭の写真は、帰りの坂道から多摩ニュータウンの夜の光を映したものでだが、ディズニーランド的な美しさの奥に縄文からの息吹を感じようで、なんとなくもののあはれを感じてしまう。
異文化と愛 ② 5/10