昨日は、府中で勉強会。有意義なひと時であった。何故人はこころを病むのかについて、自分のケースをいろいろ話したのだが、その中で同じような衝撃的なことを経験したとしても、そのあとの他者との交わりで病理的になるケース、反対に残らないケースをじっくり考えさせていただいた。
特に幼いころや少年少女時代は、周りの対応が実に重要だ。私の6歳のケースAの場合、友達の事故が発生したとき、現場に留まるか、学校に行くか、家に帰るかという選択肢があったが、迷わず学校に行った。学校では当然混乱していてプロセススケールは低下状態。このときは自己表現もうまくできない状態だが、学校の先生は怪訝な顔をしたもののほとんど無視であった。このケースはその後いろいろ問題となっていく。もちろん、当時の学校の先生にその責任を問うわけにはいかないし、問うのもあまりに気の毒だ。まあ、時代だったのだろう。
もう一つケースBは、海水浴であわや溺死かというところを、親に助けられた。そして、事態を熟知した親による暖かいケアがなされ、不思議なほどその後心の問題にはならなかった。
このふたつのケースだけで、一般論を述べるのは少々無理があるが、何かあったときにこころの支援をしてくれる人がいるかいないかは重要なことだと思う。支援といっても、愛を理解している人、ある程度の臨床心理学の知識があるほうが好ましいことは確かだろう。もちろん、なにはさておき、相手の身になって傾聴したり話したりすることが重要だ。ロジャースの命題9が思い出される。
・・・環境との相互作用の結果として、とくに、他人との評価的な相互作用の結果として、自己の構造が・・・形成される。
そして、思うのだが大変な現場では複雑な感情の曼荼羅がある。喜怒哀楽、悲喜交々・・・決して憂鬱な感情いってんばり(マスコミはそのように報道するのがふつう)ではない。実に多次元的な世界なのだと思う。現場では感情の表出は大事件ならばそれだけ感情の表出は少ないかもしれない。しかし、裏ではその反対なのだろう。そして、その感情はひとそれぞれの真実をあらわしているのにすぎず、決して感情を咎める必要はないことも忘れてはならない。
人は何故悩むのだろうか? 1/10