この一年は「生き甲斐の心理学」の勉強のお陰で縄文小説まで書いてしまった。そんなことで、最近物事が違って観えてくるように(良いか悪いかはわからないが)なってきたようだ。例えば小説を書いていると、どこかでうまく書けない自分を意識する(劣等感とか、疑惑とかが湧く)。そして、それをいとも簡単にクリアしている作品を見つけ読んだりすると唸ってしまうようになった。
最近は、7-9世紀の日本に、これも生き甲斐の心理学の関係から、興味を集中しようとしているが、「小説壬申の乱 星空の帝王」(樋口茂子著 PHP文庫)を今朝読了した。壬申の乱については、黒岩重吾さん他たくさんの作家が書かれているが、文壇に華々しくデビューした後、難病に苦しんだ樋口茂子さんの著作については全く知らないできた。
そして、これまた不思議なことであるが、私が書きたかった真善美の世界が、そこには不思議にも美しく書かれていたのには驚いた。
中大兄が何故長年天皇のくらいに着かなかったか。同母の姉・間人皇女との不倫。そして日本書紀に出てくる間人皇女の薄葬令としても簡素すぎる埋葬記述から浮かんだ樋口さんの素晴らしい仮説。間人皇女が壬申の乱の時まで生きていて、政権の裏で大きな力を持っていた・・・私は持統天皇に今興味を集中しようとしていたがビックリ・ポンであった。
さて、樋口茂子さんの本の紹介までしてきたが、自分が変わってくると、知覚が変わり世の中が違って観えてくるようになる。これは心理学の話だ。私は、幼いころに自転車にはじめて乗り、練習をしていると、いつのまにか自転車に乗れるようになった経験を思い出す。それは自転車というモノが自分の一部のように化してくる不思議の体験でもあった。
自分が変わってくる中で、よければ自転車のようなこともあるが、悪い習慣・癖といったものを身に着けることもある。ちょっと極端のようだが、こころの問題なら例えば寝られないなど、変な癖がついたりもする。これらはロジャースの命題8としてもいろいろ思索できる。
そして、思うのだが、変身や癖の問題は自分が変わるということとなんらかの関係があるようだ。
人は何故悩むのだろうか? 7/10