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持統天皇の血縁者を古墳から想う!(奈良の旅 番外編)

2016-03-03 | 旅・雑記帳

 今回の奈良の旅は、一つの想いのもとに楽しんだ旅であった。この一年自分の生育史を深く思索する機会があったのだが、その中で、両親のみならず祖父母を含めた血縁者の影響力の凄さを知ったからである。恐らく、祖父母、その前の曾祖父母・・・4世代前くらいは大きな影響があるのだと。

 そして、持統天皇のことを最近また考え始めたのだが、この日本の歴史に大きな足跡を残した女帝の血縁者のイメージを得たかった。もちろん、その足跡は広範囲で多岐にわたるのだが、とりあえず人生の終点である墓所に絞ることにした。女帝の一代前は墓所は山崎の天智天皇陵は有名だが、母の遠智娘は蘇我倉山田石川麻呂の娘としか知られていない。二代前は、父方は女帝・斉明天皇と舒明天皇、母方の父は石川麻呂。墓所は不明だが山田寺で亡くなったのは有名で山田寺跡は飛鳥にある。天智天皇の政敵だった孝徳天皇は大叔父さんにあたり太子町に墓所がある。斑鳩寺で亡くなった山背大兄王も同世代だ。三-四代前は、父方では有名なところで敏達天皇。母方は蘇我馬子、欽明天皇、推古天皇、用明天皇。

 同世代、子世代、孫世代も興味がある。同世代では、同母姉の大田皇女、健皇子(夭折)気になるところだが、斉明天皇陵に合葬されたり、陵が近接されているといわれている(斉明天皇の娘であり孝徳天皇の皇后であった間人皇女も合葬)。子世代は草壁皇子、大津皇子(大田皇女の皇子)が代表的だが、草壁皇子の陵として有力視されている束明神古墳を訪れたかった。大津皇子の陵は、二上山の山頂とも鳥谷口古墳ともいわれている。そこは、以前訪れた。

 さて、ブログの巻頭の写真は、石舞台遺跡から西を望んでいる。石室に注視して回りの風景は余り見なかったのだが、ふと見た二上山がきれいに見えた。石舞台は蘇我馬子(三ー四代前)の大型方墳と言われているが(蘇我稲目説もある)、飛鳥の蘇我氏の最大拠点(甘樫丘周辺)から西の竹内街道沿いは、やはり蘇我氏の勢力圏内で、古墳の巨石なども二上山から切り出したものも多かったようだ。

近つ飛鳥博物館で見学した修羅。この上に巨石を積んで多大な労力をかけて移動したという。石舞台の石は多武峰麓から運んだとWikipediaでは説明されていた。

   

今回は、蘇我馬子の同世代の厩戸皇子や推古天皇の太子町の古墳にも行った。従来の前方後円墳が、推古朝になると考古学的には全国的に方墳や円墳になっていくそうだ。背景には、中国大陸で巨大な統一王朝・隋が建国し、それへの危機感、影響で日本も強力な統一国家に向かったらしい(近つ飛鳥博物館 考古学からみた推古朝より)。太子町は石舞台から見えた二上山周辺を通る日本で最古の官道・竹内街道沿いにある。

  

推古天皇陵は眺望の良い丘の上にある方墳。息子の竹田皇子と合葬されている。

厩戸皇子(聖徳太子)は叡福寺に聖徳太子廟としてある円墳。その模型が近つ飛鳥博物館で展示されていた(3棺合葬、母の穴穂部間人皇后、后の膳大郎女)。

  

ちなみに、今回は聖徳太子のゆかりの地、斑鳩の法隆寺と近くの龍田神社、広瀬神社にも寄った。この場所は交通の要所でもあり、蘇我・物部戦争の時も、飛鳥からこの方面まで北上し西に折れて大阪に向かう部隊もあったようだ。推古朝の601年に斑鳩に宮殿ができ、持統天皇誕生の少し前643年に全焼する。

法隆寺の夢殿は8角形で有名だが、この8角形が墓所で天皇家等の定番であった時代があった。舒明天皇、斉明天皇、天智天皇、天武天皇・持統天皇、草壁皇子、文武天皇がそうである。因みに全国で20もなく、天皇家だけとも限らない。私の住んでいる東京・多摩にも稲荷塚古墳があるが、これは八角墳である。この場所も不思議で丹沢の最高峰蛭が岳に冬至の時に太陽がちょうど沈む位置にある。7-8世紀のこのごろは道教思想などで風水的な意味が深く考えられていたようだ。

 夢殿。

  天武天皇・持統天皇陵 ちょうど夕暮れ時で、西の方を望んだ写真も

天武天皇・持統天皇陵は実に不思議な位置にある。真北には、藤原京、平城京、平安京、大津京。真東には伊勢神宮。真西から真南の領域には、斉明天皇、草壁皇子、文武天皇、など有力者の陵が多い。

     

牽牛子古墳、八角墳で斉明天皇、間人皇后、健皇子が合葬されているとの意見が多い。陵の前に大田皇女の古墳と思われる遺跡も発見されたが当日はよくわからなかった。

 

なお、草壁皇子の束明神古墳は行き止まりがあり到達できず残念であった。この遺跡も素晴らしく黄金比が使われているとの研究もあり、機会があれば是非寄りたい。

  

高松塚古墳のそばにある、中尾山古墳。研究者によればほぼ文武天皇の陵とのこと。

今回は、竹内街道周辺をたくさん訪れたが、難波京の孝徳天皇の治世の時。天智天皇と孝徳天皇の意見が対立し、天智天皇以下、斉明上皇、天武天皇(恐らく、持統天皇や大田皇女、健皇子、官僚)が竹内街道を通り、二上山のそばを通り飛鳥の都に移ってしまう。そんな、日本書紀の記述を思い出してしまう。

ちなみに、孝徳天皇の陵は太子町の竹内街道資料館のそばにあり、その運命を考えると物悲しくなる。この陵は、円墳か八角墳か決定できず、異物から孝徳天皇の可能性は残されているが、考古学的には決定的な決め手を欠いているとのこと。

最後に、持統天皇の生育史にも影を落としたと考える蘇我石川麻呂の最後の地山田寺。興福寺の宝物館に山田寺の仏頭(国宝)を何回もみたが、何か石川麻呂の最後を連想してしまう。その残虐な死を持統天皇の母は苦しみ(父が夫により謀殺された)、精神に変調をおこし亡くなる。そして、その影響か弟の健皇子は言葉がしゃべれず夭折してしまう。山田寺の遺構は、戦後発見され飛鳥資料館に展示されているのを見たが、これまた素晴らしかった。しかし、現地に立ち、山田寺を巡っての悲劇を想うと、なんとも物悲しくなった。

      

奈良の旅 番外編

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