7-8世紀を生きた人たちは厳しい政治状況の中で、理想化されたり蔑視されたり、とても忙しい。写真の山田寺(跡)は石川麻呂の菩提寺として有名だが、石川麻呂の変のときは麻呂は逆賊の汚名を着せられ遺体にも、それこそ屍に鞭打たれる状況だった。それが、後日政権が変わると、持統天皇の祖父でもあるので、山田寺も手厚くされ、石川麻呂は尊敬を集めるようになる。
長屋王もしかり、・・・
そして、現代でもマスコミに取り上げられる有名人も、ある時は理想化されるのに、ある時はスキャンダルで蔑視される。実に厳しい。
こういう私も、そういった傾向をもつ人間である。Aさんが理想の人と見えたと思えば、次の瞬間には侮蔑の対象に。その反対も。そんな、時があった。そして、思うのだが、そんな状態が自分の中に垣間見られる時。ちょっと離れて、自分は揺れ動いているなと客観視することは大切だ。同じ人なのに、なんで理想化の対象となったり侮蔑の対象になったり、距離を少しおいて考えると良い。人は仏性を持っているとか人の身体は神の神殿とか・・・そんな思想を思い出すと落ち着いてくる。軸が大事なのだ。
日本の古代でも、そういった軸になるような人間観・思想も当然あったと思うが、もう一つ、血筋も歴史を動かす意味で強烈だったように思う。藤原氏が台頭してくるのは鎌足ー天智天皇からであるが、壬申の乱で藤原氏は目立たなくなる。しかし、天智天皇の血筋をついている見做したのか持統天皇は藤原不比等を大切にし、しまいには天皇家と藤原家の深い絆の体制ができてくる。その影響は1000年をはるかに越えて現代にまで及んでいる。
理想と蔑視の中で揺れ動いているとき、防衛機制の反動形成のピンポンゲームのようになっているとき、もう一度人とは何か・・・そんなことを思い出すことが大事なようだ。その中から、何かが始まる。自戒をこめて、そう思う。
愛の問題 8/10