イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

自分の空想の故郷を考えてみる!(言語化 6/10)

2016-04-20 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 昨日のつつじヶ丘の勉強会で、自分の空想の原点のことをちょっと振り返ってみた。言語化を考える上でも、自分のこころの源泉というか傾向と渇望というか・・・そういったものがどんな起源だったかを考えてみることは大事なようだ。

 今も、縄文小説を考えたり、そして10年以上ブログを書いたりしているが、そのネタにこまることはなかった。その理由の一つが、恐らく、空想好きということがあるのだと思う。そして、空想の果てにちょっと危険な自分を感じてはっとしたことすらある。

 小学校低学年のころに、四ツ谷の駅の上にかかる橋の上から、傘をさして飛び下りたらどうか・・・甘い空想で橋の下をのぞきぞっとしたこともある。高校一年くらいになって、木刀を作って一人チャンバラの空想をすることがあったが、ふとこれで良いかと反省したことも(笑)。

 空想の源泉は、幼いころから親しんだ私の家と、隣の祖父母の家に挟まれた庭だったようだ。

 

 上の写真は、祖父母の家から庭と私の両親の家を撮ったものだ。昭和30年代の前半くらいだろうか。チューリップが咲いているが、中央の白い縦・横の線上に見えるところは、祖父母の戦前の家の土台。空襲で焼けても残ったものだ。

 そして、この庭で夏は井戸水を入れたたらいで水遊びをしたり、スイカを父と井戸につけたりした。庭の昔の家の土台をトンカチで叩いて遊んだり、赤土の地面を掘ったりする不思議な体験。庭にやってくるスズメをとろうとしたり、アリや毛虫、蚊やハエ、足長蜂と格闘したりも。

 さらに、少年時代になると、紫陽花の葉やら土管を埋めた池の微生物を顕微鏡で眺めたり、貯金をはたいて買った天体望遠鏡で土星を見たりもした。また、狭いながらも、キャッチボールやゴルフの真似事をしたり、たき火は毎日のようにしたが(今はできない)、それが高じて飯盒炊爨やキャンプの真似事までした。

 私の小宇宙がこの庭にあるように感じている。そして、それは今の私のこころのどこかにあって、縄文小説の源泉になっていたり、生き甲斐の心理学の源泉になっていたりする。 

 因みに、昨日の勉強会では私が土台をトンカチで叩いたり、穴を掘ったりしたことが縄文への興味と繋がっているとの指摘が・・・本当かもしれない。

言語化 6/10

 

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