イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

光の効果!

2007-07-20 | 第七章「光と復活体」

天体に興味を持ち始めたのは何であろうかと考えてみた。親戚縁者に天文学者がいたわけではなく、東京の空は、今ほどでないが明るく星も見難かった。

夏に信州や広島、伊豆などに旅行に行ったときに見た星空の印象だったかもしれない。

天体に興味を持つこと。自然科学の知識取得の一面は当然あるが、もうひとつ重要なことがあるように思う。光に興味をもち、光への感受性を研ぎ澄ませることのように思う。

恒星は、やさしく瞬く。しかし、地球に近い惑星は、透き通った光であり。大気に影響されて瞬くことは少ない。そんな事実を確認するだけで少年の私はときめた。

恒星の赤い星、青い星、明るい一等星、暗い星。オリオン星雲などの光・・・そうだ、何百年前の光を見る不思議もあった。

初めて天体望遠鏡で見た惑星は金星であった。三日月の金星を始めて見たときは、感激した。

さて、私も天体望遠鏡を見始めた少年期を過ぎ、生意気な青年に成長した。少年のころの明るい感情の世界はどこにやら、毎日が何となく暗く、暗い世相もあって、ますます暗くなってきた。宗教も信じられないし、受験も失敗したりである時期は本当に暗かった。

そんなある夏の早朝、窓を開けると薄明の空に、明星が輝いていた。感動で涙がでた。美しい光を見て深く感動すること。それは、単純であるが人間に与えられたひとつの神秘のようにも思う。そして、その時から何かが変わったように思う。統合感の体験だったように思う。

暗い毎日が続くときは、外に出て、星の光、月の光、日の光を見よう。こころも明るくなるかもしれない!

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シトカへの想い!

2007-07-19 | 第七章「光と復活体」

1958年夏、両親と3歳の妹と米国アラスカ州、シトカに着いた。シトカのホテルに何日か滞在したが窓から海が見え、少年が一人泳いでいるのが見えた。

町の中央にはロシア正教の教会があったことをはっきり覚えている。アラスカは元々ネイティブの土地であったが、ロシアに占領され、そして米国に買われるという数奇な歴史を持っている。

まもなく、父がロシア人墓地の隣に家を借り、そこに一家で移り住み始めた。後から知ったが、その辺りはネイティブであるトリンギット族の、長い歴史を持つ墓地があったそうだ。

そうした、神秘的な土地で約1年生活した。母がカトリック信徒ということもあり、カトリックの教会に日曜日に出かけたことを思い出す。また、知人の日本人がプロテスタントということもあり、誘われてプロテスタントの教会にも行き、楽しく過ごした。

今から思うと、アラスカ、シトカの約一年はキリスト教、トリンギット族の文化などにも触れながら過ごした貴重な一年であった。クリスマスから復活祭まで、復活を信じるキリスト教文化をシトカで経験できたことは楽しい思い出である。

幼い頃に、理屈抜きで手を合わせて祈ること。キリスト教の文化の中で、一年を生活できたことは大きな意味があったと思う。

シトカの町の中央には老人ホームがあった。そして、庭のベンチに腰掛けて静かに時間を過ごしている老人のことを思い出す。

幼かった私も、あっという間に56歳となり、恐らくシトカのベンチに座っていた老人と同様に老い、そして死んで行くと思う。

いつか死ぬまでにシトカに行きたいと思う。そして、静かに感謝の祈りを捧げたい。

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出会い!

2007-07-18 | 第七章「光と復活体」

幼いころの記憶は2歳ころからなのだろうか?0歳から2歳ころまでの記憶は当然ながらない。母の背におぶられている記憶があるが、それが母との最初に記憶なのだろう。

私の母はカトリック信者であり、私が4ヶ月の時に近くの聖イグナチオ教会で幼児洗礼を授かった。頭に冷たい水を掛けられた記憶、そして目を開けると光が見えた記憶が不思議にある。錯覚の可能性が極めて高い・・・

ただもし、幼児洗礼の記憶が確かであれば、私のこの世での最初の記憶は幼児洗礼かもしれない。

教会で母とミサをあずかった記憶、十字を切った記憶。ぼんやりとした記憶だけがある。十字といえば、母に連れられて高円寺のミッションスクールを訪れ、そこでシスターと十字を切った記憶がある。はにかんで、「父と子と聖霊と・・」と言わず違う事を唱え笑われた記憶がある。

キリスト教、カトリックとの出会いはこうして始まった。ただ高校生になると、親への反発もあり、教会には殆ど行かないようになった。

カトリックとの再会は、今から8年位前となるが、それまでは幼児洗礼の意味は不合理だと思い、反発していた。娘達に幼児洗礼を授けさせることも無かった。

ただ、今となって幼児洗礼を考えると、幼児洗礼の恵みは全てに先立っており、何の不合理も感じない。感謝するのみである。すべては時空を超えてつながっているように思えてならない。

宗教を信じて見えることの一つかもしれない。

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新しくなること!

2007-07-17 | 第七章「光と復活体」

昨晩は、我が家のオスのマルチーズの世話をしていただいたブリーダーさんが来られた。今年結婚したメスの奥さんと息子2匹と娘1匹もつれて来られた。

私たちが餃子パーティをしている間、マルチーズ一家は親子、夫婦の絆を確かめ、人間同様に机の下で楽しんでいるようであった。

今日から、我が家は夫婦、娘二人とマルチーズの父(ノコ)と娘(こなつ)2匹となった。

私たちの世界は不思議である。帰天される方もいれば、新しく誕生する命もある。家族も変化するし、職場や友人といったものも当然日々変化する。

すべては毎日新しくなっているのだ。

私も56年の人生を通して、変化してきたし、これからも変化し続けるのだと思う。その中で、自分の人生で大きな影響を与えたことを考えると、やはり宗教や哲学の影響を避けて通ることはできない。

私は、カトリックの信仰をもっているが、恐らくこの世界に住んでいる多くの人間は、キリスト教をはじめ、仏教、ヒンズー教、イスラム教、ユダヤ教といった大宗教の影響を受けていると思う。

世の中には宗教心理学という分野がある。ある宗教を信じて見えてくるもの、見えなくなるものを研究するのが中心テーマだという。その基本パターンは宗教の種類と関係ないともいわれている。

私はカトリック信徒という、日本人にとっては少数派である。しかし光と復活体ということを思索することで、カトリック以外の皆様にとっても生きる上で役立つことが炙り出されればと願っている。

さて、どんな風になっていくことやら・・

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ロビンフッドみたいな帽子!

2007-07-16 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

小学校のころ、母に連れられてデパートに行った。母が私に帽子を買ってくれるということである。

母やデパートの店員さんが出してくる帽子をかぶり、鏡で写して見ても、なかなか気に入らない。何となく暗い気持ちになってしまった。

ある帽子をかぶって見た時、やはり何となく気に入らないと思ったとき。店員が一言「ロビンフッドに似てますよ!」。

その一言で、心は踊り、暗い気持ちが一気に明るくなり、その帽子をすぐに購入して、喜んで帰った。

現実は何も変わらないのに、このロビンフッドみたいな帽子のように、体験の解釈を変えることで、人生は明るくなるのだ。

暗いほうに、暗いほうに物事を考える人も多いが、ロビンフッドみたいな帽子みたいに、明るいほうに、明るいほうに物事を考える人も確実にいる。

若い頃は、暗いほうに暗いほうに考えるほうが格好良いように思えたが、50代の今となっては、明るいほうに明るいほうに物事を考えたほうが余程良いと思うようになってきた。

暗いことは日常茶飯事であり、その中で明るい気持ちになることはやはり稀だと実感をするようになったからかもしれない。

人生を螺旋状かもしれないが上昇させようとするポイントは、いろいろあるが、この体験の解釈が一番重要だと思う。生き甲斐の心理学でも重視している。

ベランダのるり球あざみ、なんと奇妙な植物と思えるが、どこかで見た瑠璃色の夜明けの空を思うと明るくなる。

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