イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

自分の旅路、祖先の旅路!

2009-07-14 | 第八章「魂と聖霊」

 先日の町田でのカウンセリング勉強会で、古事記が西暦712年に太朝臣安萬侶によって献上された時の話があった。一世代30年として計算すると、約42世代前となる。

 そして、その時、参加者の祖先達(父方の祖先、母方の祖先)は全員確実に存在していた。

 確かに、例えば父系のY遺伝子は一瞬も絶えることなく、時間とともに生き永らえていなければ、今の私は存在していなかったし、母系の例えばミトコンドリア遺伝子が、生き永らえていなければ存在しない。

 「その時歴史は動いた」という番組があったが、考えてみると、視聴者全員の父方の祖先や母方の祖先は、その時、何をしていたか分からないが(田植えをしていたり、寝ていたり??)、確実に存在していたはずだ。

 日本の無条件降伏の玉音放送の時。大政奉還の時。頼朝が征夷大将軍になった時。比叡山焼き打ちの時。元寇の時。源氏物語が完成したとき。壬申の乱の時。最初に古事記のストーリーが語られた時。現世人類がアフリカ大陸から初めて出た時。・・・

 生命の起源を考えれば、男女がない頃から、祖先の遺伝子のリレーは確実にあったのだろう。40億年以上昔の地球上に生命が誕生したときまで遡って。

 太古からの、祖先の生き残りを掛けた旅路を想うと、胸が熱くなる。

 自分の人生の旅路のことを考える。過去も未来もあるが、やはり「今ここ」の自分が大切なのだろう。今日1日。大切に過ごさなければ!そろそろ、仕事モードにならなければ。

<旅は道連れ 4/8>

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時間の神様!

2009-07-13 | 第八章「魂と聖霊」

 大賀ハスは1951年に千葉の縄文遺跡から発見された蓮の種のうち、ひと粒が不思議なことに発芽したものだそうである。

 2000年くらいの時間を経て咲く生命の力に驚く。ちょっとしたタイムマシンだ。

 日本神話を最近勉強しているが、時間に関する神様はいるのかと、興味を持ち調べた。日本書記にはないが、古事記に時量師神(ときはかしかみ)という神様がイザナキが黄泉の国から帰り、禊をする場面の中でたくさん神様が現れる中でひょこっと現れる。調べると、どうも曖昧でそれ以上分からない。

 ひょっとすると、時間はあまりに当たり前で、古代の人は神様の存在を感じない抽象的なものだったのかもしれない。

 しかし、自分の人生を振り返ると、時間に関しては、いろいろな想いがある。

 サラリーマン時代は、営業の生産性を上げるべく、タイムマネジメントをまじめに取り組んだし。様々な試験(入学試験、学期末試験、資格試験・・・)では、時間の配分を考えて問題を解く練習をした。必死にあくせく作業をする。

 しかし、悠久の時から考えると、何か固執しすぎな感じもする。短い人生そんなに急いで何処に行く。ひょっとすると、現代の一般的な病かもしれない。追い立てられて何かをする・・・

 追い立てられるように、日々携帯やパソコンをチェックし、メールを出したり、電話をしたりする。本当に大事なことなのだろうか?

 ある著名な哲学者は、午前中の一番頭が冴えているときは、ひたすら考えることだけをしたそうだ。疲れた午後に、やっと読書をしたり他のことをしたそうである。

 勿論、私が大哲学者の真似をしても意味はないと思うが、もう少し、時間を大切にしてもよい気がする。

 時量師神の神様の記述はないようであるが、今日は一日その神様について妄想したい。

<旅は道連れ 3/8>

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ひらめきが冴える時、冴えない時!

2009-07-12 | 第八章「魂と聖霊」

 2泊3日の町田でのU先生の勉強会に参加し、久し振りに心身共にリフレッシュし、帰って来た。U先生をはじめ参加者の皆様、深く感謝である。

 さて、この勉強会の期間、この1-2か月のことを振り返り、何となく直観力というか、現実吟味力が想像以上に低下していた事実に気づいた。確かに最近雑念というか、防衛機制が変であったし、プロセス・スケールも低下傾向であった。

 生き甲斐の心理学を学んで行くと、自分のひらめき、直観が、信頼できそうか否かが判ってくる。まだまだ修行の身(一生の修行だろうと思うが)であるが、6年前は自分の状態把握がもっとできなかった。

 その6年前、長年勤めた会社を辞める決断をした。

 ほぼ1年かけて、自分のこころを生き甲斐の心理学で整理し、祈り、こころを落ち着かせて辞める決断をし、そして意思を家族や会社に伝えたのだ。

 この時はそれで終わったが、その数日後、家族や仕事仲間から、反対意見を言われ、ある時完全に動揺・錯乱し、意志を撤回しようとしたことがあった。ただ、運が良かったのか、会うべき人に会えなかったということもあり、はじめの意志どおりに事がすすみ、退職に至った。

 一つの選択に対し、ある意味で、二つの時点での直観(ひらめき)が全く異なったケースと見ることもできる。どちらの直観が正しかったのだろうか。

 人生の過去の選択は、今となっては、どちらが良かったか考えても始まらないところがあるが、生き甲斐の心理学の学びから、どちらのひらめきが、より確かであったかは、その時のこころの防衛機制(この場合は楽な現状への回帰となる合理化や退行)と、こころの健康度{プロセススケール)から結論づけられるようだ。

 今は、意志を変な形で翻す行動にならなくて良かったと感謝している。しかし、一年の準備をしても、その時の防衛機制などで情動が激しくなり、一時は翻そうと行動しかかった。その自分の弱さを懐かしく思う。

 トンビが獲物を空から狙い、急降下の時を待ち構えている。人間よりトンビが、ひらめきは確かかもしれない。弱い自分ではあるが、生き甲斐の心理学をより活かせるように、今後も修行を深めたい!

<旅は道連れ 2/8>

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涙の神様!

2009-07-10 | 第八章「魂と聖霊」

 涙には個人的にも様々な想いがあるが、先日、日本神話の中で涙の神様のことをいろいろ考えた。

 私を含めた日本人は、厳しい環境の中で何百世代、あるいは1000世代以上日本列島で生き抜いてきた。多くの祖先が涙を流した中で、どういう場面が神話に入っているのかというのは、はなはだ興味のあるところである。

 涙の神様は、泣沢女神(なきさわめのかみ)で女神のようである。

 有名なイザナミ、イザナキが結婚し、イザナミはもの凄いお産をする。国産みをしたり、木の神、風の神、山の神など沢山の神様を産み、最後に火の神(ヒノカグツチノカミ)を産む。それが元で苦しみぬいて亡くなる。

 イザナミが亡くなった時、妻を亡くしたイザナキは遺体に取りすがって号泣した。そのときの涙が泣沢女神(なきさわめのかみ)になった。

 生きている中で、いろいろ辛い経験があるが、肉親の死。中でも愛する配偶者の死は最大級の辛い経験であることは想像できる(最大のストレスと何処かで読んだ記憶も)。しかも、お産の責任の一端も夫にはある。医療の発達された現代と違い、多くの人が命を落とすお産。その時の涙を神様にしたのは深い意味があったのだろう。

 涙の神様の由来も凄く、また納得できるが、もうひとつ、涙が神様となり、祈る対象になったということも凄い。

 日本神話の中の、ひとつひとつの存在に対する畏敬の念というか鋭い感性に改めて驚いてしまう。

 神話は多神教とかアニミズムとかで知的に追うのではなく、実感しつつ読み解いていくものかもしれない(心理学の教科書の読み方と同じで)。

 写真の花はトルコキキョウ。キキョウの花言葉は変わらぬ愛。

<旅は道連れ 1/8>

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キラキラする海!

2009-07-08 | 第八章「魂と聖霊」

 鎌倉・腰越の海は風はきつかったが、もう夏の日差しだった。遊泳注意の旗が雄々しくひらめいていたが、まだ泳いでいる人はほとんどいなかった。その中で、一人二人若者が、海岸に溶け込むように海を楽しんでいた。

 孫が生まれたためか、最近日本神話を読み過ぎているためか、棹を手にした異界の浦島太郎になったような気分がどこかにあり、海岸の若者や、江ノ電で見かける若者がとても新鮮だ。

 昔の私たちの若い頃の時代と異なり、若者のファッションセンス、特に男性のセンスは著しく進歩したようだ。時代が豊になったこともあるだろうが。

 海のイメージで一番強烈なもの。自分の成育史を振り返るといろいろな海に関わる記憶がある。氷河。凍てつく海。鎌倉の黒い海岸。岩の多かった田舎の海岸。外国のリゾート。・・・

 自分にとって、一番気になる海のイメージ・・・一番好きなイメージ。今日は、そんなことを思い出しながらのんびり過ごしてみたい。

<多様 4/4>

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